2017年12月06日

日本三奇矯「猿橋」

 大月市秀麗富嶽十二景の第6番「扇山」・第7番「百蔵山」からの帰路、「日本三奇矯*1」の一つ、山梨県桂川にかかる「猿橋*2」を見学して参りました。 

 猿橋は、広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも見ることができる古くから庶民にも親しまれてきた名勝です。 長さ31m、幅3.3mの木橋、谷が31mと 深く橋脚がたてられない代わりに谷幅の狭さを生かし、両岸から張り出した四層の「刎木(はねぎ)*3」 によって支えられた「刎橋(はねばし)*3」です。

 伝説では、推古天皇の御世の7世紀に百済から渡って来た「志羅呼(しらこ)*4」という人が、猿が手をつなぎ橋を作って川を渡る様子から思いついた工法により架けられ、それが名前の由来とされていますが、少なくとも十三世紀以前には架けられていたとのことです。

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<2017-12-05撮影> 
 百蔵山側の渡り口。 なまじ工法のことを耳にしていたので、渡るのがちょっと怖いような気がしましたが、揺れもたわみもなくがっしりとした橋でした。 橋の上に並ぶ灯篭は興醒めなように感じたものの、橋脚から上に出ない明りで足元を照らす苦心の策なのでしょう。

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 橋の中程から上流の眺めは、猿が手をつないで渡ったという伝えの通り、両崖が間近に迫る峡谷です。 ふと、何十年も前に訪れた、九州の高千穂峡が頭に浮かびました。

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 同じく下流の眺め。 手前は水道橋でしょうか。 その向こうは国道20号、車も通れる「新・猿橋」?

 反対側に渡り終えてやっとお目当ての「猿橋」の姿が見えました。
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 橋を支える「刎木」たちに雨露から守る屋根を掛けてる様子が、お地蔵様に傘を被せた「傘地蔵」のお話にも重なって昔の人々の優しい気持ちに触れてほっこりしました。

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 更にもみじが降り積もる階段を下りて・・・
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 下から仰ぐと刎橋の見事な構造が間近に見られました。

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 刎木の先端の白く塗られた部分がお猿さんの顔に見え、必死に手をつないで橋を支え合っているようで「お猿たち、頑張って!」と思わず手に力が入りました。

 ちょっと高い台に上がって、残っていた紅葉と橋が入るアングルに挑戦!
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 一体何処に攀じ登っているのかと、同行の方々に呆れられました・・・。
もっと紅葉が鮮やかな頃も綺麗だったでしょうけれど、ちょっと侘びた風情もまた好もしいものです。

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 猿橋駅の階段前には山梨県の由来ともなった「ニホンヤマナシ」の木が植えられていて、よく見れば未だ小さなナシが3つほど残っていました。 看板には、1903年(明治三十六年)、猿橋駅の開業記念として植えられたとあり、既に百年以上もこの地で人々を見守って来たのですね。 それほど古木にも見えず、改めて木の寿命の長さと人間の命の短さを感じてしまいました。 

*1【日本三奇矯】
 いわゆる「日本三奇矯」と呼ばれる橋の「猿橋」以外の二橋は、
 ・山口県岩国川の「錦帯橋」(1673年(延宝1)創建)
 ・富山県黒部川の「愛本橋」(はね橋形式だった時)
 なのですが、愛本橋は架け替えられ奇矯ではなくなり、代りに「木曾の桟(かけはし)」や 徳島県祖谷(いや)「かずら橋」を入れることもあるそうです。 但し、構造的な奇矯度は上の二つには及ばないとか。

*2【猿橋】
 猿橋は、かつては甲州街道に架かる重要な橋であった。 現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線と国道20号で同名の新猿橋がある。 長さ30.9M、幅3.3M 水面からの高さ31M 深い谷間のために橋脚はなく、急峻な両崖から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支木をせり出し橋を支えている。

*3【刎木】【刎橋】
 梃子(てこ)の原理を応用し、長く突き出た軒先の低下を防ぐために軒裏に用いる材。 上方を小屋束(こやづか)に固定し、土居桁(どいげた)や出梁上の桔木枕などを支点として軒先を支える。

 【刎橋】は、岸の岩盤に穴を開けて刎木を斜めに差込み、中空に突き出させる。 その上に同様の刎木を突き出し、下の刎木に支えさせる。 支えを受けた分、上の刎木は下のものより少しだけ長く出す。 これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ね出していく。 これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

*4【志羅呼(しらこ)】
百済からの渡来人とされるが、それ以外の経歴は不詳。 猿橋の伝説では、橋の工事が難航した為、夫婦揃って川に身を投げ人柱となったとされる。

「日本書紀」には、推古二十年(612年)に百済より路子工(みちのこたくみ)という人物が渡来し、庭を作ったり土木工事を行ったりしたとされている。 彼の顔や身体には白斑があったと伝わり、呼び名「志羅呼(しらこ)」や渡来時期から、猿橋の作り手の別称ではないかと推測されている。

 分からない言葉などを調べている時、去年の3月「猿橋」がテレビ番組「美の巨人」で取り上げられていたことを知りました。 奇しくもその日は・・・こうして惹きつけられるのも何かご縁があるのかもしれません。


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posted by 山桜 at 00:00| Comment(2) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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