2018年12月19日
数馬の切通し
自然観察ランキング
大多摩ウォーキング・トレイル本番の後、どうも気になっていた「数馬の切通し」を見に、また奥多摩から白丸へと踵を返し向かいました。
昭和橋渡り、「もえぎ橋」を渡り・・・
もえぎ橋からの眺め いつもは賑わう「もえぎの湯」は臨時休業でした。
白丸トンネルの右手に残る「旧青梅街道」へと進むと見えてきたのは、
「数馬隧道」 先程の白丸トンネルが掘られたと同じ大きな岩山の谷側寄りに、ツルハシや鑿(ノミ)を使って人の手で掘られた隧道(トンネル)です。
近づくとツルハシや鑿の跡が残っていて生々しい。
手作業の痕跡を心に刻みながら隧道を潜り、振り返ると光が眩く差し込んで・・・当時の人々も同じ風景を見ながら往来したのでしょうね。 何だか声が聞こえて来たような。
大多摩ウォーキング・トレイルの案内図では旧青梅街道に入ってすぐ左手に山道があるように描いてありますが、そのような登り口はなく、隧道を出て直ぐ左手の暗がりに落ち葉に半ば埋もれた石段がありました。
『地図には載っていないけど、その先に古びた鉄の階段も見えるし、この道しかないな』とまた、いつもの動物的勘で行動。
鉄階段の先には岩の間から沢水が流れ落ちて・・・
『え、ここ? いやいやこれはアブナイ、普通登らせないでしょう・・・』(後で図をみたら、昔はここを上ったようです)
若しやここで終わりかと思いきや、ヘアピンカーブで右に折れた方に石段? あ、こっちですね^^;
さて、登ってみると、どうもハッキリした道がありません。 下に舗装路が見えているけれど、そっちに降りてしまっては切通しがありそうもないし、落ち葉に埋もれた微かな踏み跡があちこちに伸びていて、一体どれが正解なのか・・・ こういう時はよ〜く見ていると正しい道がぱぁっと光って見えて来るものです(個人の意見です^^;)
万両の赤い実がこっちだよ〜と教えてくれたような? 落ち葉の積もる中を探り探り進むと柵のある道に出て看板もみつかりました。
上って来た道を振り返る ここも一つの切通しのような
(1クリックで大きくなります)
「数馬の切通しの図」 これがまた大まかで分かりづらい図で・・・現在の道なのか、過去の道なのか?? 嘉永時代と宝暦時代の道は残っていないのかな。 私が歩いて来た道がどこなのかは良く分からないけれど、元禄時代の道(谷川に柵のある道)に辿りついて現在地に着いたようです。
ふむふむ、大正末期に先ほどの隧道(トンネル)が出来て、岩の上の折角の切通しは不要になったのかも?
「宝暦年間の供養の石碑」 刻まれている文字は、
「従(役?)留浦村氷川数馬(?)道供養 願」でしょうか?
(?)の部分のシンニュウの漢字、お分かりになりますか?
<追記 2018-12-21>
多聞さんのお問いかけとご指摘を受け、もう一度良く考えてみて判明しました!
多聞さん、一緒に考えて下さり、ありがとうございます。
錦絵のタイトルで「従江戸伏見迄・・・(江戸から伏見まで)」とあるのをみつけたので、
「従留浦村氷川数馬迄道供養 願」で
「留浦村から氷川数馬までの道供養 願う」
の意味だと思います。
道を切り開くために犠牲になった方もおいでなのですね。 合掌
そしてここが
「数馬の切通しの一」
数馬の切通し一を振り返る
一の切通しを抜けて、二の切通しへ向かって広がる景色
二の切通しを伝って下りると、旧青梅街道にぶつかり行き止まりになっています。 その道が大多摩ウォーキング・トレイルの案内図に載っているのですが、旧青梅街道からは入れないので、摩訶不思議な地図になっています。
どうも合点がいかずにこちらの道を彷徨っていて写真を撮るのを忘れていました。
また振り返ると、何かここも切り通そうとして諦めたのかな? 躊躇い傷が残っているような四角い岩
沢の行き止まりです。 何となく登ったら面白そうにも見えましたが、未だ手負いの身、流石に無謀なことは止めておきました。
先程下に見えた舗装路に降りて進むと、<白丸駅→>の看板が見え、ホッと安心。
「十一面観音堂」 そっと中を覗いてみましたが、観音様はお留守なのか、お姿が分かりませんでした。
印象的な三角の尖山は「天地山」。「奥多摩槍」とも呼ばれるそうです。 目に留まった山は登る運命にある筈。 次はきっとあの山へ・・・名前にも、ずっとご縁を感じていました。
天地山を仰ぐ位置に
「名に負える天地岳は人知らず
奥多摩槍と言わば知らまし(川合玉堂)」の看板。
白丸駅の上に出ました。
踏切を渡って・・・踏切の真ん中で写真を撮っていたら、結構車が通って邪魔してしまい、すみません。
今後の参考に時刻表を控えたり、待合の中を眺めたりしている内にトンネルを潜って電車がやって来ました。 そういえば、ここもトンネルなのですね。 奥多摩に行くには幾つのトンネルを潜らないと行けないのでしょう。 トンネルが無かった時代には山を越えるしかなく、本当に奥の奥の地だった場所に今は気軽に行けること、先人の苦労に感謝です。