2019年01月14日

藤原定家と式子内親王(テイカカズラの由来)



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        式子内親王.jpg

 「名前の由来はまた後で」などと書いては放りっぱなしのこと多々あり・・・で反省。 今回は京都在住の桃里先生もご興味を持ってくださっていると伺って、俄然真面目に書いておくことに致しました。

 テイカカズラは定家蔓と書く通り、歌人・藤原定家に由来した名前です。 簡単に書いてしまえば、
「式子(有職読み:しょくし/しきし、通説: のりこ)内親王を慕っていた定家の魂が乗りうつるが如く、内親王の墓石に這い上った蔓に定家の名を付けた」
と言うことになります。

 式子内親王といえば、かの後白河法皇の娘で賀茂神社の斎院(伊勢神宮の斎宮・賀茂神社の斎院の総称が斎王)でもあり、百人一首でもおなじみの恋の歌

 たまのをよ たえなはたえね なからへは  
        しのふることの よはりもそする
 (命を繋ぎ止める玉の緒よ 
  絶えてしまうものなら絶えておしまい 
  これ以上生き永らえば 忍ぶ思いは隠しきれない)
 
をご存じの方も多いと思います。(山桜訳の稚拙さはお許しを)

 内親王が定家の父である俊成に歌の師事していたこと、定家が内親王の姉君のお側務めのようなことをしていたことから、お近づきになるご縁があり、一まわり程年上の内親王に憧れの思いを抱いていたのではないかと、定家が残した「明月記」の記録から(お歌を賜った? お風邪を召された内親王を何度もお見舞いに上がった等々)想像が膨らまされ、後に能「定家」の物語も生まれています。

 定家は個性の強い癖字で有名で、近年女子学生の間で流行った丸文字の元祖などと言われたこともありました。 小堀遠州はその定家流の文字を好み、更にを洗練させて一つの書体を作ってしまったほどです。

 08-1 063.jpg
 小堀遠州・作、銘の茶杓「虫喰」の文字

国宝「明月記」(定家の真筆が見られます)
http://www.emuseum.jp/detail/100357/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E6%98%8E%E6%9C%88&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=1&num=2

 私はテイカカズラが地を這いまわり木に取り付いて登り始めた頃の小さい丸い葉が、この定家文字の雰囲気に似ているように思えてなりません。 自然を愛でた昔の人も、きっとその辺りの類似性に目を留めたのではと密かに思い、遥か古の方々との心の交流に『ふふふ』と心躍らせております。

 式子内親王には定家とは別に、出家時の導師であったのでは?とされる法然との恋の噂もあるようで・・・。 本当の恋心があってもなくても「歌」を詠むことはできますが、人の心に響き後年にまで残る歌は想像だけではなかなか生まれないのではと。 男女の恋など許されない身分の方の想像だからこそ情念が深いのだという説も目にしましたが、「恋に恋する恋心」だけは本物でしょう。 

 何はともあれ、鎌倉時代の歌に秘められた思いを今この時、こうして紐解く機会を「定家蔓」に引き寄せられたこと、その時代の歌や書がちゃんと今も残っていて、その心に触れられること、この幸せに浸って居たいと思います。

 上の式子内親王の札の歌(新古今和歌集)を読み解けば、(これが読めるようになったのも桃里先生のご指導のお蔭です)
  
 山ふかみ 春ともしらぬ 松の戸に 
          たえだえかかる雪の玉水

 (山深く 未だ春とも気付かぬ 松の戸の侘び住い
          途切れつつ落つるは 雪どけの玉雫)

 因みにその定家蔓が絡み付いたとされる式子内親王のお墓と伝わる五輪塔が、般舟院陵(上京区今出川通千本東入ル北側)の西北奥の小さな塚の上に立っているそうです。 桃里先生なら自転車にサッと飛び乗り確かめに行かれるのでは? 本当に羨ましい限りです。 テイカカズラ、今も絡みついているのでしょうか・・・霊となって蔓の絡みを解いて欲しいと願った内親王のお気持ちを汲み、取り除かれているでしょうか。 定家もそんなしつこい男と伝えられて気の毒ですが、それもあの癖のある書体の所為かもしれません。


posted by 山桜 at 12:37| Comment(9) | 俳句・和歌・詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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