2010年04月16日
桃と巳
今年の4月16日は旧暦の三月三日「上巳の節句=雛祭=桃の節句」です。 新暦3月3日「雛祭」の月遅れとなる、4月3日に咲き始めた桃の花が今もまだ綺麗に咲いています。
季節は先取りを良しとするというものの、新暦の3月3日では、桃はおろか桜の花さえ咲いていません。 梅雨の最中の七夕・星祭と並んで季節に合わなくなっているお節句です。 我が家では折角の可愛らしい庭の桃の花の咲く頃、月遅れか旧暦か丁度いい頃にお祝いすることにしています。
上巳とは、三月の上旬の「巳」の日、の意味で、元々は三月の上巳の日に行われた川での禊祓いの行事でした。 (後に中国で重三の節句として三日に固定。) 日本では、まだ寒い時期だからでしょうか、実際に人間が川に入って禊祓いをするのではなく、川に人形代(ひとかたしろ)を流して厄を祓う行事となりました。
さて、「桃」と「巳=蛇」と揃った所で、もう一つの大物主神の正体が知られる物語をご紹介します。
崇神天皇の姑(おば)である倭迹迹日百襲姫(やまとととび(ひ)ももそひめ)は、聡明な方で神懸りとなり物事を予知されることもあり、やがて大物主神の妻となった。
けれども大神は昼は来ず夜になるとやって来るので姫は、
「貴方はいつも昼はおいでにならず、お顔を拝見できません。
どうかもう暫く留まって下さい。
朝になればその麗しいお姿を拝見できるでしょうから…」
と願ったので、大神は答えて仰った。
「もっともなことである。
明日の朝、貴女の櫛函に入っていよう。
どうか私の姿を見ても驚かないように。」
姫は妙なことと思いつつ、朝になり櫛函を開けてみると、真に麗しい小蛇(こおろち)が入っていた。 その長さは衣紐ほどであった。
姫は大神と約束していたのに、小蛇の姿に驚き叫び声をあげた。
すると大神は恥じて忽ち人の形となり、
「おまえは我慢できずに、私に恥をかかせた。
今度は私がお前に恥かしいめをさせよう。」
といい大空を踏んで御諸山(三輪山)に登ってしまわれた。
やまと・ととび・ももそ姫が三輪山を仰ぎ見て悔い、どすんとその場に座り込んだその時、箸でホト(陰部)を撞いて死んでしまわれた。 それで太市に葬った。 その墓を名づけて「箸墓」という。
その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。
大坂山の石を運んで造った。 山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。 ときの人は歌っていった。
オオサカニ ツギノボレル イシムラヲ
タゴシニコサバ コシガテムカモ
日本書紀 巻第五
崇神(しうじん/すじん)天皇
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」
より
いかがでしょうか…。 不思議がいっぱいつまったお話で、あれやこれやと想像が膨らみますね〜♪ 「名前こそが最初の呪=祈りである」といいますが、もうお名前からして謎がいっぱい! 最後の「箸でホトを撞いて…」の段がなければ、もっと広く親しまれるお話になったのかもしれませんが、なんといっても、そこが肝ですから無くす訳には参りません。 そして「箸墓古墳」は今もそこであろうという古墳がちゃんと残っているのです。 太古のロマンは今も続いています。
因みにこの倭迹迹日百襲姫のお話には弟(兄?)の吉備津彦命の武勇伝が絡みます。 ご存知の方も多いと思いますが、この吉備津彦命は「桃太郎」のモデルとされています。「桃」や「キビ団子」などキーワードが繋がりますね。
上: 我が家の枝垂桃(照手水蜜)
下: ご近所の濃い八重咲きの花桃
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「桃と巳」って、改めてその姿を念頭に置くとなんとも艶かしく…(。。;)
タイトルを付けた時は、そんなこと何も考えずに書いてしまって…。
まぁ、生命の営みの根源ということで、お許し下さいませ。
物語的にも、そのイメージは正解なのかもしれませんし…。
何を言っているやら〜