「幕末に生まれたかった」
「医者になりたかった」
などと言ってました。 どうやら「連れてけ」と言ってるようなので行ってみますか。

緒方洪庵(1810−1863 54歳)
蘭学者・医学者・教育者
「医の世に生活するは人の為なり
おのれがためにあらず」
(扶氏医戒之略1857 翻訳)
天然痘予防の牛痘苗種痘事業開始
適塾を開き、橋本佐内、大村益次郎
福沢諭吉、長與専斎、大島圭介、
高橋凌雲、佐野常民ら多くの人物を
輩出
淀屋橋・北浜界隈のオフィス街の真中に、タイムスリップしたような江戸時代そのままの 建物が残っていました。 商業都市大阪に残る最古級の町屋建築(店舗兼住宅)だそうで、大塩平八郎の乱(1837)、大阪大空襲(1945)からも奇跡的に被害を免れました。

「適塾」国重要文化財 表通りから
ビルの谷間ではありますが、両側に公園緑地ができていて明るく静かな佇まいです。

東側面から
屋根の僅かな丸み、黒塀と漆喰の白、竹の緑が美しいです。


中庭 灯り


書斎 庭

(2階)塾生大部屋


大部屋中央の柱(刀傷?) 急な階段・丁髷はぶつからない?


2階の小窓から 西側の公園には洪庵先生の像が…頭だけ拝めました。
展示物、資料などの撮影は禁止でしたのでご紹介出来ませんが、蘭書の解読に必須の貴重なヅーフ辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ部屋に詰めかけ奪い合って勉強したとのこと。 福沢諭吉は、
「凡そ勉強ということについては、
このうえもしようも無いほど勉強した」
と述懐したという。 この時代の人の勉強への渇望・熱意・密度、そして使命感は想像を超えるし、そういう時代が羨ましくもある。 主人がこの時代に生まれてみたかったという気持ちは、この点とは違うのかな? 激動の時代を生きて見たかったと言ってたけれど、この辺りも聞いて見たかったなぁ


【ダイミョウダケ(大名竹)】適塾 東側の公園に植えられていたもの
見た目の美しさ、そして筍の美味しさがピカイチらしいですが、こんな狭い植栽では美味しい筍は無理ですね。 勿体ない!
「適塾の最後の感想がそれか?」 主人の声がしたような…
意志や精神力は強い方だったに違い無いと思いますが、
実は本来病弱だったそうで、奥様の八重さんの活躍なしでは
適塾の見事な成果は成し遂げられなかったろうとのことです。
9人の子供と患者と塾生の面倒を見ていたなんて、スゴイです!
「仁」先生が転がり落ちる神田川沿いの崖、子供の頃から
見慣れた風景だったので、直ぐにあそこだ!と分かりました^^