2017年05月18日

高槻A「伝能因法師墳」

八丁松原の先、JRの陸橋からの眺めを楽しんで、ここでいいのか怪しげな?階段を下り、さぁこれからが暑く長い迷子の道程でした。 大体最初の広い府道沿いに立っていた白くて目立つ道標と同じ形の道標が行く先々にも立っていると思いますよね? それが違うのですよ・・・。 加えて新興住宅が多く、道行く人も他所から引っ越してきた人が多いようで、この人なら絶対知ってるだろうと思った新聞配達の方さえも、

「のういん何?? 聞いたこと無いなぁ」とのお答え。 

 小倉百人一首の中の、

  あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり

でも有名ですし、土地の人なら誰でも知ってらっしゃると思ったのが甘かったようです。
 
 能因法師は、中古三十六歌仙の一人。 平安中期に生まれ若くして作歌を始め、当時の歌壇の第一人者 藤原長能の元で学び(初めて師について歌を学んだ、師伝相承の始まりとされる)つつ、女流歌人・伊勢の作風を慕い、伊勢の住んでいたこの地に居を定めただなんて、26ー7歳で出家した僧侶でありながら何となくトキメキを感じてしまいます。 その上ちょっと変人だったらしく、実際に東国や西国の遠地へ放浪の旅にも出掛けていたのに、

  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 という歌を都で詠んだのは面白くないと、わざわざ暫く人に会わずにいて顔を黒く日焼けさせてから、東北へ修行の旅に出た時に詠んだ歌として披露したと言う逸話が「古今著聞集」に残っています。 

 放浪の旅に出て歌を詠んだの僧侶の始祖であり、西行も芭蕉も能因に憧れて旅に出たとか。

 さて私も、同じような所をぐるぐると放浪ならぬ彷徨っていると、これは迷っているのでは?と気付かれた仏様のような方が近づいて来てくださり、やっと見逃していた道しるべを教えて頂けました。 足元の小さな石の道標が指さす、まさかこんな細い道を入っていくとは・・・

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おそるおそる細道を抜けると車も通れる道に出て、その道を横切りその先のまた一段と狭い道を進むと・・・(道の反対側に設置の道標は見逃しやすく、この細道の入口に道標が無いからダメなんです。 高槻市の方、再考ねがいます。)

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 急に目の前がパッと開けて田圃の中にこんもりとした木に覆われた塚が現れました!

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 土地の人の呼ぶ「能因塚」は、正式には「伝 能因法師 墳」で、あくまでも「能因法師のお墓」と伝えられている盛塚、ということのようです。 但し、「今昔物語」の中で能因法師は「古曽部入道」と呼ばれていることから、この地(高槻市古曽部)に居を構えていたことは確かとのことです。

 塚の前には、後の高槻城主 永井直清が慶安3年(1650)に建立した顕彰碑(碑文は儒学者の林羅山による)や、能因さんのお名前付きの供物台も設けられています。 道端で摘んだ花を手向けて手を合わせ、ここまで引き寄せて下さったご縁に感謝し、暫し能因法師さんとお話をしました。 

「人を慕う、好きになるって幸せなことですよね。」
「そして放浪の旅に出ては、また懐かしい人の居る地へ戻ることも・・・。」

 顕彰碑の表側は傷みが酷くて殆ど読めない状態でしたので、裏側を撮っておきました。

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 ここで、今年初めて蚊に刺されました。 私の血を吸った蚊の子らがこの地で増えるのもまた一興です。

 それにしても暑い、朝お茶を入れて持ってきたペットボトルの残量が心許なくなってきましたよ。


posted by 山桜 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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