2017年06月30日

「鴎外の庭に咲く草花ー牧野富太郎の植物図とともに」展

 夏越の大祓いの日、暫く行けないでいた持病の経過観察に行き、肥大も悪化もナシでホッと一息。 折角都心に出て来たついでに、同じ地下鉄路線で行ける「森鴎外記念館」まで足を伸ばしました。 この企画展のタイトルを見たら行きたくなって・・・

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 *既に終わってしまってからのレポで申し訳ないです。
 
 自邸の庭に四季折々に咲く花々を記した「花暦」には、私も同様ですから鴎外さんと「仲間ですね!」と固い握手をしたい気持ちになりました。 牧野先生の植物愛溢れる細密な植物画と共に足跡を辿った展示もさることながら、鴎外と富太郎を語る動画が4本流されていて、もう、知らなかったことだらけで・・・恥ずかしながら森鴎外も牧野富太郎もどういう人柄なのか誤解していたというより、殆ど知らなかったことに愕然としました。 

 鴎外は夏目漱石に比べると何だか気難しそうで、小説にも手が延びにくかったのですが、これ程までに植物を愛し自分の庭で沢山育てていたこと、小説の中にも沢山の植物を登場させていたこと、そして主人と同じくらいの若さで亡くなったこともあり、ぐっと親しみが湧き今更ながらもっと読んでみたくなりました。

 考えてみれば、「森 林太郎」という本名からして、森や林、そこに暮らす植物・生物に興味を持つのは必然ですね。 牧野先生が「植物の精」とすれば、鴎外は「森林の精」かもしれません。 森林の国ドイツへ行ったのも偶然ではないような。

 余りにも優秀過ぎお国の為の軍医という仕事に専念せねばならない立場、自分のやりたいことが自由に出来ず苦悩しながら若くして亡くなった鴎外と、自分のやりたいことに思い切り没頭して94歳の人生を全うした牧野富太郎、奇しくも同じ年に生まれた二人が、それぞれ違う道を進みながらも植物と言う接点とそれを通した交流を持っていたことに救われる思いがしました。

 牧野先生の植物画は人気で殆ど売り切れており(鴎外記念館でそれらを求めるのは自分的に?ですし)、鴎外の多才さの一片を思い知らされた「東京方眼図」を手に入れました。

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 今では普通にお世話になっている地図の方眼割りですが、日本では鴎外が最初に取り入れたのだそうです。 「いろは・・・ と 一二三・・・」の割り振りが時代を感じさせます。 タモさんが古地図でぶらぶら出来るのも鴎外のお蔭なんですね。

 残念ながら鴎外の愛した庭や東京湾も望めた自邸「観潮楼」などは焼失(後に住んだ人の失火と戦火で)、イチョウと門の敷石と「三人冗語の石」に僅かに面影を遺すのみ。 今は、敷地跡に鴎外への気持ちが籠められた職人技を集めて造られたモダンな森鴎外記念館(陶器二三雄氏設計)が建っています。 最早「モダンな」と言う言葉が既に古い感じがするようになりましたね。

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左:焼け残ったイチョウとその奥に見える「三人冗語の石」
  鴎外が腰掛け、幸田露伴、斎藤緑雨と共に写った写真が残る
右:門の敷石(団子坂ではなく当時正面玄関のあった藪下通りに側)
  軍服姿の森鴎外が出勤前にここで軍馬と写った写真が残る


〔展覧会要旨〕森鴎外記念館HPより
文京区立森鴎外記念館には、『花暦』と題する鴎外の自筆原稿が遺っています。この原稿には、2月から9月までの8カ月間の草花の開花状況が記されています。書かれた年代は確定できていませんが、明治30年頃の観潮楼(鴎外自邸)の庭を観察したものと推定されます。

 明治の文豪・森鴎外が草花を観察していたこと、少し意外に思われるかもしれません。鴎外の日記や子どもたちの遺したエッセイからは、草花を好み園芸を楽しむ一面をみることができます。また、鴎外は自身の作品の中にもたくさんの草花を登場させています。その数500種以上、植物専門家でもないひとりの作家が取り上げる数としては、並外れた数といえるでしょう。作品の中の草花は、季節感や自然の美しさを忠実に伝えるものもあれば、鴎外の想いを伝える表現手段として登場するものもあります。草花の健やかな姿に鴎外は心を癒されると同時に、草花への関心が創作活動の契機にもなっていたにちがいありません。

 本展では、観潮楼で咲いていた草花と鴎外作品にみられる草花を、鴎外と同じ文久2(1862)年生まれの植物学者・牧野富太郎の植物図とともに紹介します。草花の姿や印象を文字で記録した鴎外と、部分図や解剖図を盛り込み形態や性質を緻密な図で記録した牧野。互いの日記に名前が記されるなど、2人には交流もありました。物事を克明に捉え続けた2人の目を通して、鴎外の〈庭〉に咲く草花をご覧ください。


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posted by 山桜 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 記念館・資料館等 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
森鴎外・・・確かにとりつきにくい文体です。地味で理屈っぽい???それに、私に悪い印象を持たせたのは司馬遼太郎の「坂の上の雲」日露戦争、遼陽さか(漢字を調べなくてすみません)の戦いの記述、当時の日本兵は相当の割合で脚気で死んでいるという記述。わが家、ご先祖様は遼陽、さかの戦いで若くして死んでいます。鴎外で読んだのは、「高瀬川」と「山椒大夫」くらい。でも、確かに大変な学者であったらしく、古代の天皇の名前のもとになった中国の古典を調べたとか聞いています。もう一度読み直してみましょう。何しろ、本はいっぱい本棚にちゃんとあるんですから。
Posted by 山口ももり at 2017年07月14日 08:19
◆ももりさんへ

 「坂の上の雲」での印象、悪いですよね。 ただ、ビタミンB1を含む麦飯よりも憧れの白米を食べさせてやりたいという情の部分もあったのだそうです。 ドイツで学んだ鴎外が、ヨーロッパでは見られない脚気をアジア特有の菌による病と信じていたのも無理ないことかと思います。 海軍で脚気が少なかったというのも、数字のマジックがあったみたいですし、海軍美化の風潮もあるでしょうか。 日本で本当に脚気が改善されたのは、第二次大戦後ですよね。 「細雪」で「B足らん」と言って松子?が注射を打つ描写がありましたがあれは昭和何年頃だったのでしょう。

 私も子供の頃、「山椒大夫」「即興詩人(訳)」、それに「高瀬川」を読んだような…位の記憶しかありません。 「舞姫」と「ヰタ・セクスアリス」を読んでみたいと思っていたのですが、今回の展示を見て「青年」「うたかたの記」を先ず読んでみようかなと。 しかし目が不調なのが困ったものです。
Posted by 山桜 at 2017年07月14日 18:38
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