
江戸図屏風・右隻第6扇中上(神田、神田川、水道橋、吉祥寺、高林寺御茶水)
上の図の左下、雲と雲の間に挟まれた神田川の向かって右岸、半円状に塀に囲まれた屋根付きの井戸のようなものが見えますでしょうか? 読み難いですが良く見ると「高林寺御茶水」と書いてあります。 ここが、その「お茶の水」だったのでしょう。
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国立歴史民俗博物館HP「江戸図屏風右隻第6扇中上」より
おそらくその右が湯島聖堂、その上が明暦の大火で駒込に移転する前の「吉祥寺(きちじょうじ)」です。 吉祥寺と井の頭の「お茶の水」=神田川の源流、そこでも家康や家光が鷹狩の際に水を汲みお茶を楽しみ、家光が湧水を「井の頭」と命名し辛夷の木に刻んだ・・・そんな話も念頭に置くと、益々興味が湧いて参ります。
(武蔵野市の吉祥寺の地名は、明暦の大火で焼け出された吉祥寺門前の住民が移転したことによります。)
お茶の水駅前の交番横の石碑には、次のような文が刻まれています。
聖堂の西比井名水にて お茶の水にも めしあげられたり
神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る
享保十四年 江戸川拡張の後
川幅を広げられし時川の中になりて
今その形もなし (再校 江戸砂子 より)
慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。 ある時、寺の庭より良い水がわき出るので
将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。 それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺はお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。
其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。
お茶の水保勝会 坂内熊治
高林寺 田中良彰
昭和三十二年九月九日
残念ながら、「御茶ノ水」駅のあるこの地の「御茶の水」は、享保十四年に川幅の拡張と共に神田川の中に消えてしまったのですね。 となると、今も残る井の頭恩賜公園の中の「お茶の水」は貴重ですが、そちらも今は殆ど涸れてポンプで地下水を汲み上げています。
ただ、時に大雨の後など池畔の幾つかの湧水が復活し池の水が澄んで底まで見えることがあり、井の頭の池を愛する人々を喜ばせています。 浸透水が増え、湧水面の高さが池の底面より上昇すれば、未だ池への湧水が復活する可能性があると思うと希望を捨てないでいられます。

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丁度ブラタモリで、明暦の大火で移住してきたという吉祥寺の名前の由来もやっていて驚きました。
こちらも歳を重ねていくにつれ、懐かしい街並みも変わっていくのですね。
京都にお住まいだなんて、京都以外に住んでいる人の憧れですのに、無い物ねだりが人の常なのですねぇ
湯島聖堂もたびたび火災に遭って復元されています。 元のままであったらどれだけ素晴らしいかと残念に思います。
ところで「湯島聖堂・楷の木」の記事で書きました「楷の木」と「楷書」、書家のももりさんはどちらが先と思われますか?