(3月19日のお稽古)
千家茶道の始祖、抛筌斎利休宗易の命日は天正19年2月28日ですが
(旧暦から新暦へ換算し)表千家では、「ひと月送り」として、
新暦3月27日に利休忌の行事が催されます。
(裏千家・武者小路千家では「ひと月遅れ」として3月28日。)
利休忌には、利休の画像等を掛け、縁の菜の花をお供え*1します。
そして先ず、茶湯(ちゃとう)*2を供え(供茶=くちゃ)、一同で薄茶を
いただき、利休の遺徳を偲びます。
また「七事式」の中の「廻り花」「茶カブキ」などを行ない、茶の湯の道に
精進する姿を以って供養と致します。
3月と4月のお稽古は、この利休忌に因んだことを少しずつ分けて
教えて戴きます。 今日は先輩による供茶と茶通箱*4のお点前を拝見し、
私は四方棚で薄茶のお点前、最後は総飾りで終えました。
茶巾の絞り方がどうもおかしいようで、今一度、おさらいです。
利休さんの遺偈は決意を秘めたとても力強いお言葉で、きりりと
気持が引き締まる思いでした。 抛筌斎の号にもこの意志が感じられ
ます。
<覚書>
掛物: 利休像 遺偈(ゆいげ)
人生七十 力圍希 咄
吾這宝剣 祖仏共殺
提(ひっさぐ)ル我得具足の一太刀
今此時そ天に抛(なげうつ)
天正十九仲春
廿五日 利休宗易居士
(花押)
花入: 胡唐 曾呂利
花: 菜の花
棚: 利休形*3 四方棚(桐木地角有)
茶器: 利休形 黒大棗 仕服: 利休梅
茶碗: 天目茶碗
茶杓: 利休形 牙
菓子: 桜(本来の利休忌のお菓子は「朧饅頭」。)
*1「菜の花」
秀吉の命により利休が自刃された時の床に飾られていたと伝わる。
利休忌が済むまでは菜の花は用いない慣わし。
通常は縦長の掛物と一緒に飾る場合、掛物と花入が重ならない
ように飾るが、仏事の場合は供花なのでこの限りではない。
*2「茶湯」「供茶」
仏前への供茶の際は、天目茶碗・天目台を用い、先に茶碗に注いだ
湯の中に抹茶を落とし、茶筌で点てずにそのまま供える。
(神前への「献茶」の際は、茶筌で点てて献上します。)
*3「利休形」
歴代の家元のお好みの道具は「○○好み」と呼称されるが、
利休好みは、別格で「利休形」とされる。
*4「茶通箱(さつばこ)」
客が「特別な茶」を持参した時に行う点前。
箱の中には格上の茶入に客の茶、小棗に亭主の茶。
この2種類の濃茶が供される。
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2008年03月26日
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やっと 菜の花活けられますね。 桜はもちろん 一面の菜の花畑も元気がでる黄色で 捨てがたいです。
お茶湯は静けさの中にじんわりとお茶が溶けて広がりゆき、
まるで利休さんの心が私たちにも伝わってくるような気持に
なりました。 何故、こうするようになったのか、謂れも
気になりますが、質問する雰囲気ではなかったので、流石に
図々しい私も控えました。
利休さんと桜の逸話も面白いですね。 桜、お好きだったと
思いたいです。 ただ侘びた茶室には合わないという気持は分る
ような気がします。 散る風情を楽しんだなんて、主客の心が
通わないと難しそうですね〜 ^^;
黄色と白の水引の熨斗袋なんて初めて伺いビックリでした!
ああ、無知…(。。;)
千利休四〇〇年遠忌の
京都国立博物館の展覧会で
実物を拝見しましたが
ちょっと荒れたような字で
ああまさに遺偈なのだな…
とか思った記憶があります
私も京都の方からお聞きいたしましたが拝見した事はありません。
地方によっても違うのでしょうか〜
海外ではこの辺は実にいい加減で世間知らずな大人になってしまっている事が多く学ぶ事が多いこの頃です。
利休さんはどんな思いだったのでしょう〜
無でなくならず〜死でなくなるんですね。
わ〜実物をご覧になれたのですね! 想像しただけで、
気魄が伝わって圧倒されてしまいそうです。
「力圍希」の部分は、宗旦の訂正が入っていて(人世→人生も)
本来利休さんの残された文字では「圍」の部分が「□の中に力」
と書かれていて、その解釈が後の世で多少分かれるようですね。
そうやって後々まで謎解きを遺して下さる所がまた味わい深い…
お家元での利休忌では皆さん、その黄白の水引だったそうで、
知らずに行ったら恥をかくところだったというお話を伺いました。
関西では常識でも、関東以北では全く知られていないことも
多いのでしょうか…
>無でなくならず〜死でなくなるんですね。
あやめさん…(冷汗タラリ;;)ううっ…分りません。
私などはまだまだ表面的な浅い理解しか出来ていないと
思います。 いつか…いつか分る日が来るのでしょうか…