2025年01月10日
木曽御嶽信仰 八海山・三笠山
ご訪問ありがとうございます
白旗神社の境内で目に留まり、気になっていたこの石碑
木曽御嶽信仰では有名なものだったのですね。今までも見かけていたかもしれませんが、今回、特に気になったということは、呼んで頂けたのでしょうから、調べないわけには参りません。
御嶽山を開山したのは役小角ですが、江戸時代に御嶽山の王滝口を開いた普寛上人(秩父の大滝出身でしたね)が開いたのが八海山・三笠山の二山で、御嶽三大神として祀られているのだそうです。
それが何故、白旗神社の境内にあるのかが、私には謎なのですが・・・「同じ源氏同士、仲良くしよう」ということ? 藤沢市内にある御嶽神社のご祭神は日本武尊。日本武尊と源義経は、女性と見まごう美青年、親族に疎まれる悲劇性など共通点も多いことと関係あり?
直ぐに横道に逸れるのが悪い癖・・・先に進みます。以下、自分の思考の為のメモ段階で、纏まり無くすみません(。。;)
八海山は、酒名でも知られる新潟の山
三笠山は、どら焼きで有名な奈良の三笠山ではなく、
長野県木曽郡王滝村にある標高2256mの山の方
御嶽山大神は、座王(蔵王)大権現(後述)
八海山大神は、大頭羅神王 (後述)
三笠山大神は、刀利天 (後述)
御嶽大神は、
神道では、次の三柱の神と習合
・国常立尊(くにのとこたちのみこと)
天地開闢のはじめに出現、造化育成を司る
・大己貴命(おおなむちのみこと)
国造り、産業発展、縁結び、子宝繁栄を司る
・少彦名命(すくなひこなのみこと)
延命長寿、病気平癒、薬、酒などを司る
・日本武尊
・金山比古命 と習合する例も。
修験道では「蔵王大権現」として
・釈迦如来
・千手観音
・弥勒菩薩 の三尊の合体したものとされる。
大頭羅神王 日本書紀に国常立尊の次に登場する国狭槌尊
刀利天 豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
古事記では豐雲野神、神代七代の第二の神、
日本書記では天地開闢に登場する神代七代の第三の神
火と竃の神として信仰されている三宝大荒神と同体
帝釈天と同体とも
神道と修験道、習合、異名同体、名前が沢山出てきましたね〜面白くなって参りました! 思えば、昨年、武蔵御嶽神社のある御岳山の御師「神坐す山の物語」の舞台のお宿に泊まったのがご縁の始まりか・・・。いやいや、また眠れなくなるので、今日はここまで・・・。
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2025年01月09日
相州藤沢 白旗神社
ご訪問ありがとうございます
相州藤沢 白旗神社
ケロのお蔭でご縁が出来た神社さん。私にとっては聞き慣れない神社名でしたので、少しずつでも知っていきたくて調べ始めました。
因みにこちらの「白旗」は源氏の旗印であり、「降参」を意味する「白旗をあげる」とは関係ありません。
「白旗をあげる=降参」は、言葉の通じない国同志の国際的な取り決めで、1907年オランダ国際平和会議で戦時国際法として決定されています。戦時下でも何かしら手許にある白い布が便利だったからと言われています。源氏からしたら不本意?
大鳥居と御典橋
大通りの交差点の向こう、白旗川に架かる御典橋を渡り大鳥居を潜ると静かな御神域に入ります。
大鳥居は大地震対策で日本初のグラスファイバー製(昭和59年建立) 高さ8m、幅6m 明神鳥居
ご由緒
起源は相模国 寒川神社の寒川比古命をお祀りした寒川神社。
源頼朝公の怒りをかい源義経公は奥州平泉衣川館において自害。
首級は鎌倉腰越で和田義盛・梶原景時に首実検された後、海へ。
夜間に義経公・弁慶の首級は、白旗川を上りこの地に漂着した。
頼朝は、源氏の白旗から白旗明神としてこの地に祀るよう指示。
弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られる。
さて、言わずと知れた源義経公以前、最初から祀られているご祭神「寒川比古命」。古事記などには登場せず、一体どのような神様なのでしょう。
白旗神社HPの「神社の歴史」の記載
寒川比古命は、太古の時代に、関東地方を開拓された神様です。農業、漁業、土木、商工業、建築など、さまざまな開発をされ、関東文化の基礎を築かれました。そのため、土地や人々、仕事全般の守護神として、また唯一の八方除の守護神とし て、人々に親しまれてきました。地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事や災難をとり除かせられ、開運をもたらすといわれます。
なるほど、関東地方の神様なのですね。それにしても、「唯一の八方除の守護神」となられた理由がイマイチはっきりしませんね。何か鬼門などの方角と関係がありそうです。先ず、本家の寒川神社に参拝に行き実際に感じ取りたいです。
また、日本語に当てられている漢字は意味をなす場合と音だけの場合がありますので寒川比古命の「さむかわ」だけに着目すると、「さがみ」と似た語感が気になります。相模と何か関係があるのでしょうか。
相模国高坐の寒川神社の前には、霊峰富士山を源とする相模川が流れています。神おわします高坐、神霊をあらわす「さ」かみ川・・・神秘の地であることは間違いなさそうです。う〜ん、いろいろ思考は広がりますが、例によって収拾がつかなくなるので宿題としておきます。
最初の階段の上の参道
源義経公縁起
源義経公鎮魂碑
狛犬さん
白旗神社 社殿
幾度かの消失などを乗り越えて現在の社殿は、
文政11年(1828)より7年かけ天保6年(1835)12月に完成。
本殿、弊殿、拝殿を連ねる典型的な流権現造。
外壁部の彫刻は江戸時代の匠による貴重な文化財。
扁額
弁慶の力石
山桜もしっかりと力石に触れて御加護を頂いて参りました。
参拝後に降りる左手の階段の先に箒目も美しい砂と木立が目に留まりました。次には謂れを知りたいです。
神輿殿に横に続く階段を降りていきます。
波に洗われた海辺の岩で出来ている?
神輿殿
こちらでチビケロは初宮詣のご祈祷を受けました。
大きな藤棚
花の頃にもお参りしたい。
三笠山 御嶽山 八海山
どういうご縁の三山大神なのでしょう。確か義経は木曽の義仲を討ったのでしたよね・・・
様々な歴史を経て現代も守り続けておわしますのですね。
鳥居の向こうの喧噪に戻りたくないなぁ
「しっかりと、今を大切に生きよ!」
義経公と弁慶に励まされ、今年も人生を楽しみながら生きて参ります。
相州藤沢 白旗神社HP
相模国一之宮 寒川神社
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2025年01月02日
初詣 義経と弁慶
2024年11月09日
天神山 金蔵院 観音寺(小金井市)
ご訪問ありがとうございます
「野川とはけの道ハイキング」の本番、願ってもないハイキング日和の好天に恵まれ、高く抜ける青空の下、気持の良い秋の一日となりました。
先ず「野川とはけ」について絵図と共に説明。はけ=崖の古語であり、これからその崖を下って野川に向かいます。私は旧小金井市民、懐かしい故郷を皆さんにご案内する機会を得て、張り切って出発しました。
武蔵小金井駅前は、再開初で大きなお屋敷等は大型店舗やマンションに様変わりしましたが、土地勘で近道も自在です(^^;)
金蔵院(こんぞういん) 天神山 金蔵院 観音寺
ムクノキ 椋木
ケヤキ 欅
表通りから階段を下り、裏手からお邪魔。開星稲荷裏に大きく聳える推定樹齢400年以上、小金井市天然記念物のムクノキ、ケヤキ、「萩寺」由縁の白萩(センダイハギ)、枝垂れ桜など観察。
金蔵院 薬師堂 白萩(センダイハギ)
金蔵院 本堂
享和三年(1803)火災で消失、16年後の文政二年(1819)に再建
大正十一年に破風作りの屋根に改修
平成二年十一月に改築建立
今日の無事を本堂の観音様にお祈りし、表門へ。
この見事な枝垂れ桜の咲く頃にまたお参りに来たいです。
尚綗学舎跡・村役場跡の解説板
村民に親しまれた観音様であったことを物語るように、明治初期に第一小学校の前身である寺子屋(尚綗学舎)が設けられ、大正時代には村役場が併設されていたとのこと。
金蔵院 表門
元々の看板が、かなり日焼けしていて判読困難ですみません(。。;)以下、公式HPよりの抜粋まとめ。
永禄年間(約450年余前)以前に開山
真言宗豊山派
ご本尊 十一面観自在菩薩(本山 奈良 長谷寺)
小金井市に現存する最古の寺院
(住職・堯存(ぎょうそん)が1566年(永禄9年)に遷化した記録が残っており、それ以前の開山と推定)
真言宗豊山派府中市妙光院末二十八ヶ寺の一寺で、小金井村の鎮守天満宮(現小金井神社)の別当寺であったことから「天神山」の山号を頂く。
檀家は上・下小金井村と小金井新田まで広い範囲に分布。
国分寺崖線(通称“はけ”)のすぐ下に位置しており、はけ下一帯は湧水に恵まれ古くから人々が定住。小金井発祥の地とされる。
金蔵院 公式HP こちらによれば、本山は奈良県桜井市の長谷寺とのこと。こちらへもお越し下さる瓜亀仙人さんの地元で、ご縁を感じます。
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「野川とはけの道ハイキング」の本番、願ってもないハイキング日和の好天に恵まれ、高く抜ける青空の下、気持の良い秋の一日となりました。
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武蔵小金井駅前は、再開初で大きなお屋敷等は大型店舗やマンションに様変わりしましたが、土地勘で近道も自在です(^^;)
金蔵院(こんぞういん) 天神山 金蔵院 観音寺
ムクノキ 椋木
ケヤキ 欅
表通りから階段を下り、裏手からお邪魔。開星稲荷裏に大きく聳える推定樹齢400年以上、小金井市天然記念物のムクノキ、ケヤキ、「萩寺」由縁の白萩(センダイハギ)、枝垂れ桜など観察。
金蔵院 薬師堂 白萩(センダイハギ)
金蔵院 本堂
享和三年(1803)火災で消失、16年後の文政二年(1819)に再建
大正十一年に破風作りの屋根に改修
平成二年十一月に改築建立
今日の無事を本堂の観音様にお祈りし、表門へ。
この見事な枝垂れ桜の咲く頃にまたお参りに来たいです。
尚綗学舎跡・村役場跡の解説板
村民に親しまれた観音様であったことを物語るように、明治初期に第一小学校の前身である寺子屋(尚綗学舎)が設けられ、大正時代には村役場が併設されていたとのこと。
金蔵院 表門
元々の看板が、かなり日焼けしていて判読困難ですみません(。。;)以下、公式HPよりの抜粋まとめ。
永禄年間(約450年余前)以前に開山
真言宗豊山派
ご本尊 十一面観自在菩薩(本山 奈良 長谷寺)
小金井市に現存する最古の寺院
(住職・堯存(ぎょうそん)が1566年(永禄9年)に遷化した記録が残っており、それ以前の開山と推定)
真言宗豊山派府中市妙光院末二十八ヶ寺の一寺で、小金井村の鎮守天満宮(現小金井神社)の別当寺であったことから「天神山」の山号を頂く。
檀家は上・下小金井村と小金井新田まで広い範囲に分布。
国分寺崖線(通称“はけ”)のすぐ下に位置しており、はけ下一帯は湧水に恵まれ古くから人々が定住。小金井発祥の地とされる。
金蔵院 公式HP こちらによれば、本山は奈良県桜井市の長谷寺とのこと。こちらへもお越し下さる瓜亀仙人さんの地元で、ご縁を感じます。
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2024年06月26日
「十二さま」とは?
ご訪問ありがとうございます
最近、尾瀬、玉原などで相次いで「十二さま」を祀る神社に出会い、栃木の太平山(おおひらやま)の麓で「客人(まろうど)神社」という、他所からやってくる神様を祀る神社に詣で「客人とは?」と考える機会も得ました。
このように、関連事項が畳みかけてくる時は、学びのご縁が巡ってきている時! 逃す手はないですね
尾瀬 山神宮 大清水登山口手前
最初に「十二さま」という聞き慣れない神様の名前を、「尾瀬の語りべ」M氏に伺ったのは、この神社前でした。その時に、
「十二さまってどんな神様ですか?」
と伺いたかったのですが、送って頂いた上に質問攻めでは余りにも厚かましく、口に出来ませんでした。いや・・・一度は口にしたかも・・・お返事なく、聞こえなかったかな、失礼だったかな、と諦めたような記憶が・・・??
こちらのご祭礼日は、5月13日だそうです。
<追記>「12」の禁忌で13日にしたのかと思ったのですが、後で虚空蔵菩薩さまを祀ったのが始まりと知り、「13日は虚空蔵菩薩さまの縁日」だったことを思い出しました。
尾瀬 十二山神社
同じ日に、また尾瀬で「十二山神社」に出会い、縁起を読み、十二さまが「山の神」であることが分かりました。
尾瀬 山ノ鼻 十二山神
なんと、尾瀬の山ノ鼻、研究見本園入口傍にも「十二山神」が祀られていました。
こちらでは、9月12日が「十二山神様」のお祭日とのこと。
おおっ、山桜とKさんの結婚記念日と同じ。やはり何かご縁があるのかな。
尾瀬のビジターセンター情報によれば、
「十二山神様」は山で働く人たちの守護神であり、安産の神様、女神様であり、醜女であるという伝承もあって、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを供える習慣もあるようです。
玉原 十二山宮
そして今年の出会いは玉原の「十二山宮」でした。
先ず「十二さま?」と思って頭に浮んだのは、「12の月のおくりもの」(スロバキア民話)、また、それを元に創作された「森はいきている」というロシアの物語です。どちらも、一年の12の月にそれぞれの神様がいらっしゃるという考え方に基づいています。
しかし、どうやら日本の「十二さま」は、それらとは少し違う「山ノ神」さまのようで、最初から学び直しです。
「十二さま」は、
・主に雪深い東北地方で篤い信仰がある。
・春には里に降り、秋には山へ帰っていく神霊。
→雪解けで始まり、雪で閉ざされる農耕、山仕事に関連?
→祖霊がやって来て帰る、春彼岸、秋彼岸に関係あり?
しかし、彼岸は多忙な為、お盆に神事が催される。
・里と山の境界線辺りに祀られていることが多い。
・他所からやっている「客人神」としての性格があり?
なぜ「十二」なのか。
・一年十二ヶ月に十二人の子を産むという山ノ神の属性に由来。
(例)山ノ神は「女性で一年に十二の子をお産みになる。(岩手県九戸郡山形村)
・十二というのは具体的な数というよりも「極まった数」として神威の大きさを表している。
これは山ノ神がお産、子育てをつかさどる神としても崇められたことに関連する?
その他には、
・神仏習合による神格として薬師如来の眷属十二神将とする説。
・熊野十二所権現との関連を指摘する説。
また、奥只見観光公式サイトによれば、
・十二山神社の本尊「虚空蔵菩薩」は、今をさかのぼること八百余年、平安時代末期にこの地に移り住み、尾瀬ヶ原や尾瀬沼を発見し、尾瀬の地名の由来でもあると言われている尾瀬ノ三郎房利が、京の都を離れる際に、思いを寄せていた御妃より密かに形見として賜ったもので、この地の住民に与えられ、その後、村人達により守り本尊として崇められてきました。 虚空蔵菩薩は、人々に知恵を授けるともいわれています。 また、明け方の空にひときわ明るく輝き、その美しさで人々の目を引きつける「明けの明星」は、虚空蔵菩薩の化身とされており、金星 (ビーナス)は愛と豊穣と美の女神の名前としても知られています。とありました。
なるほど、それで「尾瀬」では、一際、十二さま信仰が篤い訳なのですね。しかし、虚空蔵菩薩と山の神の関係が分かりません。未だ追い続けたい点の一つです。
数の禁忌
・十二という数は畏れ多いがゆえに、かえって禁忌とされることがある。
木樵が山へ入るとき12人になることを嫌い、また山小屋などで12人が会することを恐れ木の枝等で作った人形で13人に擬し、山中の祠に納める。(津軽)
・山ノ神講の講員が十二人に減らないように努める。(長岡)
・12の付く日に山に入らない。(山仕事をしない。)
山ノ神を女神とする伝承
・子を産むので必然的に女神。
・男性を好み、女性を嫌う。
・山で探し物をする時、男性自身を露わにするとみつかる。
・山仕事や神事に女性を関わらせない。
・醜女とされることが多い。
(自分の妻のことを「山ノ神」と称するのを聞いたことがある。)
う〜ん、ますます興味津々です。今まで知らなかった「十二さま」について、これからも学んでいきたいです。
<参考書籍>
「十二山ノ神の信仰と祖霊観」 (上)(下)
東洋大学ライフデザイン学部教授 菊地章太
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最近、尾瀬、玉原などで相次いで「十二さま」を祀る神社に出会い、栃木の太平山(おおひらやま)の麓で「客人(まろうど)神社」という、他所からやってくる神様を祀る神社に詣で「客人とは?」と考える機会も得ました。
このように、関連事項が畳みかけてくる時は、学びのご縁が巡ってきている時! 逃す手はないですね
尾瀬 山神宮 大清水登山口手前
最初に「十二さま」という聞き慣れない神様の名前を、「尾瀬の語りべ」M氏に伺ったのは、この神社前でした。その時に、
「十二さまってどんな神様ですか?」
と伺いたかったのですが、送って頂いた上に質問攻めでは余りにも厚かましく、口に出来ませんでした。いや・・・一度は口にしたかも・・・お返事なく、聞こえなかったかな、失礼だったかな、と諦めたような記憶が・・・??
こちらのご祭礼日は、5月13日だそうです。
<追記>「12」の禁忌で13日にしたのかと思ったのですが、後で虚空蔵菩薩さまを祀ったのが始まりと知り、「13日は虚空蔵菩薩さまの縁日」だったことを思い出しました。
尾瀬 十二山神社
同じ日に、また尾瀬で「十二山神社」に出会い、縁起を読み、十二さまが「山の神」であることが分かりました。
尾瀬 山ノ鼻 十二山神
なんと、尾瀬の山ノ鼻、研究見本園入口傍にも「十二山神」が祀られていました。
こちらでは、9月12日が「十二山神様」のお祭日とのこと。
おおっ、山桜とKさんの結婚記念日と同じ。やはり何かご縁があるのかな。
尾瀬のビジターセンター情報によれば、
「十二山神様」は山で働く人たちの守護神であり、安産の神様、女神様であり、醜女であるという伝承もあって、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを供える習慣もあるようです。
玉原 十二山宮
そして今年の出会いは玉原の「十二山宮」でした。
先ず「十二さま?」と思って頭に浮んだのは、「12の月のおくりもの」(スロバキア民話)、また、それを元に創作された「森はいきている」というロシアの物語です。どちらも、一年の12の月にそれぞれの神様がいらっしゃるという考え方に基づいています。
しかし、どうやら日本の「十二さま」は、それらとは少し違う「山ノ神」さまのようで、最初から学び直しです。
「十二さま」は、
・主に雪深い東北地方で篤い信仰がある。
・春には里に降り、秋には山へ帰っていく神霊。
→雪解けで始まり、雪で閉ざされる農耕、山仕事に関連?
→祖霊がやって来て帰る、春彼岸、秋彼岸に関係あり?
しかし、彼岸は多忙な為、お盆に神事が催される。
・里と山の境界線辺りに祀られていることが多い。
・他所からやっている「客人神」としての性格があり?
なぜ「十二」なのか。
・一年十二ヶ月に十二人の子を産むという山ノ神の属性に由来。
(例)山ノ神は「女性で一年に十二の子をお産みになる。(岩手県九戸郡山形村)
・十二というのは具体的な数というよりも「極まった数」として神威の大きさを表している。
これは山ノ神がお産、子育てをつかさどる神としても崇められたことに関連する?
その他には、
・神仏習合による神格として薬師如来の眷属十二神将とする説。
・熊野十二所権現との関連を指摘する説。
また、奥只見観光公式サイトによれば、
・十二山神社の本尊「虚空蔵菩薩」は、今をさかのぼること八百余年、平安時代末期にこの地に移り住み、尾瀬ヶ原や尾瀬沼を発見し、尾瀬の地名の由来でもあると言われている尾瀬ノ三郎房利が、京の都を離れる際に、思いを寄せていた御妃より密かに形見として賜ったもので、この地の住民に与えられ、その後、村人達により守り本尊として崇められてきました。 虚空蔵菩薩は、人々に知恵を授けるともいわれています。 また、明け方の空にひときわ明るく輝き、その美しさで人々の目を引きつける「明けの明星」は、虚空蔵菩薩の化身とされており、金星 (ビーナス)は愛と豊穣と美の女神の名前としても知られています。とありました。
なるほど、それで「尾瀬」では、一際、十二さま信仰が篤い訳なのですね。しかし、虚空蔵菩薩と山の神の関係が分かりません。未だ追い続けたい点の一つです。
数の禁忌
・十二という数は畏れ多いがゆえに、かえって禁忌とされることがある。
木樵が山へ入るとき12人になることを嫌い、また山小屋などで12人が会することを恐れ木の枝等で作った人形で13人に擬し、山中の祠に納める。(津軽)
・山ノ神講の講員が十二人に減らないように努める。(長岡)
・12の付く日に山に入らない。(山仕事をしない。)
山ノ神を女神とする伝承
・子を産むので必然的に女神。
・男性を好み、女性を嫌う。
・山で探し物をする時、男性自身を露わにするとみつかる。
・山仕事や神事に女性を関わらせない。
・醜女とされることが多い。
(自分の妻のことを「山ノ神」と称するのを聞いたことがある。)
う〜ん、ますます興味津々です。今まで知らなかった「十二さま」について、これからも学んでいきたいです。
<参考書籍>
「十二山ノ神の信仰と祖霊観」 (上)(下)
東洋大学ライフデザイン学部教授 菊地章太
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2024年05月10日
琴平丘陵初夏(4)修験堂
ご訪問ありがとうございます
岩場を登った上にいらした仏さま
右手が説法印なので阿弥陀如来さまでしょうか。
その後ろに突如現れる白木造りの修験堂
影森琴平神社の旧奥ノ院の場所、大岩断崖上に建つ。
先ず正面で祈念し、お堂外の細い回廊を周り、真ん中の柱のマニ車の干支を一つずつ(外側に「南無阿弥陀仏」と刻まれていますが、横に干支が記されています)まわし、12回で干支が一回りすることで一回の行だそうです。(今は、回廊も一部壊れており、一部立ち入り禁止で廻れません)
修験堂から下る急階段
ヤブレガサ ミヤマハコベ?
新緑の道でポーズ アカネ
オオバイノモトソウ チゴユリには小さな実が
オニグルミの木と雄花
(つづく)
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影森琴平神社の旧奥ノ院の場所、大岩断崖上に建つ。
先ず正面で祈念し、お堂外の細い回廊を周り、真ん中の柱のマニ車の干支を一つずつ(外側に「南無阿弥陀仏」と刻まれていますが、横に干支が記されています)まわし、12回で干支が一回りすることで一回の行だそうです。(今は、回廊も一部壊れており、一部立ち入り禁止で廻れません)
修験堂から下る急階段
ヤブレガサ ミヤマハコベ?
新緑の道でポーズ アカネ
オオバイノモトソウ チゴユリには小さな実が
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2024年05月09日
琴平丘陵・初夏(3)岩井堂
ご訪問ありがとうございます
ツクバネウツギ 衝羽根空木 スイカズラ科ツクバネウツギ属
萼の部分が衝羽根の形をしています。
護国観音さま下の岩場を下る
ヤマツツジ ヒトリシズカ 一人静 センリョウ科
キヌタソウ 砧草 アカネ科ヤエムグラ属
ハンショウヅル 半鐘蔓 キンポウゲ科センニンソウ属
マルバウツギ 丸葉空木 アジサイ科ウツギ属
切通に掛かる鉄の橋 橋の袂の石祠
岩井堂付近案内図 回避した320段以上の階段
札所26番 岩井堂
秩父札所26番。萬松山圓融寺の境外仏堂。臨済宗建長寺派。
嘗て秩父三十四ヶ所札所の第26番観音が安置されていた堂宇、今は無人。弘法大師が諸國遍路の際に霊験を感じて岩間に壇を設けて、三七日の秘法を修業したと伝わる。その後秩父太郎重弘が堂舎を再興、子の重能・孫の重忠代々の信仰を集め、佛國禅師が当地に霊験を感じて禅定したと伝わる。
圓融寺では、岩井堂の建立時期を畠山重忠が二俣川の合戦で謀殺された元久2年(1205)としている。
円融寺からレゾナック社敷地内経由だと、320段以上の階段を登る修行?が待つ。
岩井堂の舞台の上の参加者の皆さん
岩井堂の舞台上
岩井堂の舞台から下を覗く
千社札だらけ・・・聖観世音のご詠歌が読めない
秩父札所26番はこちらなので再掲
岩井堂裏の岩窟
嘗てはこちらも修行の場だったか。
岩井堂から修験堂への岩場
(つづく)
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萼の部分が衝羽根の形をしています。
護国観音さま下の岩場を下る
ヤマツツジ ヒトリシズカ 一人静 センリョウ科
キヌタソウ 砧草 アカネ科ヤエムグラ属
ハンショウヅル 半鐘蔓 キンポウゲ科センニンソウ属
マルバウツギ 丸葉空木 アジサイ科ウツギ属
切通に掛かる鉄の橋 橋の袂の石祠
岩井堂付近案内図 回避した320段以上の階段
札所26番 岩井堂
秩父札所26番。萬松山圓融寺の境外仏堂。臨済宗建長寺派。
嘗て秩父三十四ヶ所札所の第26番観音が安置されていた堂宇、今は無人。弘法大師が諸國遍路の際に霊験を感じて岩間に壇を設けて、三七日の秘法を修業したと伝わる。その後秩父太郎重弘が堂舎を再興、子の重能・孫の重忠代々の信仰を集め、佛國禅師が当地に霊験を感じて禅定したと伝わる。
圓融寺では、岩井堂の建立時期を畠山重忠が二俣川の合戦で謀殺された元久2年(1205)としている。
円融寺からレゾナック社敷地内経由だと、320段以上の階段を登る修行?が待つ。
岩井堂の舞台の上の参加者の皆さん
岩井堂の舞台上
岩井堂の舞台から下を覗く
千社札だらけ・・・聖観世音のご詠歌が読めない
秩父札所26番はこちらなので再掲
岩井堂裏の岩窟
嘗てはこちらも修行の場だったか。
岩井堂から修験堂への岩場
(つづく)
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琴平丘陵・初夏(2)大渕寺・護国観音
ご訪問ありがとうございます
札所27番 竜河山大渕寺/龍河山大淵山
(りゅうがさん だいえんじ)
曹洞宗 ご本尊:聖観世音菩薩(伝・弘法大師作)
木の幹を呑み込んだ跡?のある大岩
「恵みの延命水」を頂く(S) 鐘楼堂
「延命水」は、天然湧水で年間渇水することがない。この水を飲めば「三十三ヶ月延命出来るとの言い伝え。
「鐘楼堂」は、第51代横綱「玉の海」による追善相撲を記念して昭和46年(1971)に建立。
大淵寺 付近図
大淵寺 月影堂 3月下見時残雪あり
月影堂に参拝
下見時、マサさんが手を合せた時と同様、皆さんの参拝時にさぁっと日が差し、お堂も明るく輝きだしました。観音様に歓迎されていると確信、余りのありがたさに更に頭を垂れました。
月影堂の縁起
昔、宝明(ほうめい)という名の行脚僧が、影森の地で病に倒れた。
そこへ訪れた弘法大師は、宝明の病の話を聞くと、聖観音像を彫り与えた。宝明は病の回復を祈願し礼拝を続けると病が完治。これに歓喜した宝明は、聖観音像を本尊として、観音堂を建立したという。
札所27番お札
夏山や しげきが下の 露までも 心へだてぬ 月の影もり
お札を頂く前に、お札の意味に思いをいたし、観音様にお参りを忘れぬように・・・。
月影堂右手「琴平丘陵ハイキング」入口 お不動様
どんぐりとツチグリ (S) ツクバネウツギ
ギンラン
ササバギンラン
月影堂の上に出る 琴平丘陵ハイキングコース道標
マルバウツギ(S)
キンラン 10:19
ツクバネウツギ 10:19 (S) 護国大観音への道標 10:21 (S)
護国観音 (S)
1935年(昭和10年)建立。大淵寺の背後に立つ巨大(高さ約17m)コンクリート製の観音像。
高さ五十五尺九寸(17m弱)は「ごこく」の語呂合わせとのこと。
高崎観音・大船観音と共に関東三大観音の1つ。戦前には、巨大仏の造立ブームあり。
日本仏教では女性的に表現されることが多い観音菩薩の中で、こちらは肉感的で力強い体格と、蓮華の代わりに宝剣を持った左手が特徴。これは戦前の世相によると考えられる。
護国大観音から北北西 城峯山方面 (S)
護国観音からの展望 (G)
護国観音より小鹿野二子山(左端の尖塔)など 03.03
護国観音より両神山 03.03
写真・キャプション協力:参加者(S)印 S.Akiraさん、(G)ガッコちゃん
(つづく)
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札所27番 竜河山大渕寺/龍河山大淵山
(りゅうがさん だいえんじ)
曹洞宗 ご本尊:聖観世音菩薩(伝・弘法大師作)
木の幹を呑み込んだ跡?のある大岩
「恵みの延命水」を頂く(S) 鐘楼堂
「延命水」は、天然湧水で年間渇水することがない。この水を飲めば「三十三ヶ月延命出来るとの言い伝え。
「鐘楼堂」は、第51代横綱「玉の海」による追善相撲を記念して昭和46年(1971)に建立。
大淵寺 付近図
大淵寺 月影堂 3月下見時残雪あり
月影堂に参拝
下見時、マサさんが手を合せた時と同様、皆さんの参拝時にさぁっと日が差し、お堂も明るく輝きだしました。観音様に歓迎されていると確信、余りのありがたさに更に頭を垂れました。
月影堂の縁起
昔、宝明(ほうめい)という名の行脚僧が、影森の地で病に倒れた。
そこへ訪れた弘法大師は、宝明の病の話を聞くと、聖観音像を彫り与えた。宝明は病の回復を祈願し礼拝を続けると病が完治。これに歓喜した宝明は、聖観音像を本尊として、観音堂を建立したという。
札所27番お札
夏山や しげきが下の 露までも 心へだてぬ 月の影もり
お札を頂く前に、お札の意味に思いをいたし、観音様にお参りを忘れぬように・・・。
月影堂右手「琴平丘陵ハイキング」入口 お不動様
どんぐりとツチグリ (S) ツクバネウツギ
ギンラン
ササバギンラン
月影堂の上に出る 琴平丘陵ハイキングコース道標
マルバウツギ(S)
キンラン 10:19
ツクバネウツギ 10:19 (S) 護国大観音への道標 10:21 (S)
護国観音 (S)
1935年(昭和10年)建立。大淵寺の背後に立つ巨大(高さ約17m)コンクリート製の観音像。
高さ五十五尺九寸(17m弱)は「ごこく」の語呂合わせとのこと。
高崎観音・大船観音と共に関東三大観音の1つ。戦前には、巨大仏の造立ブームあり。
日本仏教では女性的に表現されることが多い観音菩薩の中で、こちらは肉感的で力強い体格と、蓮華の代わりに宝剣を持った左手が特徴。これは戦前の世相によると考えられる。
護国大観音から北北西 城峯山方面 (S)
護国観音からの展望 (G)
護国観音より小鹿野二子山(左端の尖塔)など 03.03
護国観音より両神山 03.03
写真・キャプション協力:参加者(S)印 S.Akiraさん、(G)ガッコちゃん
(つづく)
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琴平丘陵・初夏(1)円融寺
ご訪問ありがとうございます
3月に下下見に行った琴平丘陵、初夏となり本番の日を迎えました。
影森駅までは、乗換が多いのですが、いろいろな車両が見られて楽しい♪
沿線の四季の花々 ハリーポッター号
西武線の西武秩父駅から秩父鉄道・御花畑駅は鉄道会社が違い、乗り入れていないので歩かねばならないのです。線路はちゃんと並行して走っているのにねぇ これって連絡通路のお店が乗り入れを反対しているのかしら? 西武線の秋津とJRの新秋津と同様?
秩父鉄道 御花畑駅ホームと写真家 8:32 (S)
秩父鉄道・御花畑駅は、今年の1月にレトロ風大正浪漫風にリニューアルされたばかり。
影森駅と武甲山 8:45 (S)
因みに「影森」の地の由来は、武甲山の影の森とのこと。山の影が届く程間近に聳えています。(左の立派な駅舎に見えるのはお手洗い)
今井屋さん外観と味噌ポテト
「今井屋」さんに味噌ポテトの買い出しへ。なんと味噌ポテト1パックに焼きそば1パックのサービス付きという大盤振る舞い!(いつもそうとは限りませんよ〜💦)女将さん、ご馳走様でした
影森駅周辺をちょっと散策・・・
砂を積載した貨車 9:05 (S) 駅から護国観音を望む
貨物列車の警笛の音、重さに軋むレールの音が懐かしい。
これから向かう護国観音さまのお姿が山の中に・・・。
ハコネウツギ(G)
箱根ウツギ 9:16 (S) 稲荷神社 9:16 (S)
民家の塀の外にハコネウツギが滝のように溢れて咲いていました。ニシキウツギとハコネウツギは、どちらも紅白が混じり咲きますが、花筒の底部が「箱のように角張っている」のがハコネウツギ、覚えやすいでしょ?
札所26番岩井堂の別当寺 円融寺の牡丹 9:27 (S)
札所26番岩井堂は無人の為、お札はこちらで頂きます。円融寺には「未了の庭」「牡丹の庭」があり、どちらにも牡丹が沢山植えられています。下見時が満開でしたが、本番でも未だ咲いていてくれました。
萬松山円融寺(まんしょうざん えんゆうじ)
臨済宗建長寺派 ご本尊は「聖観世音菩薩(伝・恵心僧都作)
畠山重能(重忠の父)の開基と伝わることから、平安時代後期創建と推測。
秩父札所26番 岩井堂・萬松山円融寺のお札
これから「訪ねいる岩井堂」に期待が高まります。
本堂に参拝 円融寺門前 9:28 (S)
円融寺入口とその手前の影森用水跡?
影森用水は、安政四年(1857)当時の名主・関田宗太郎が私財を投じ、水の不便な影森村民の苦難を救うために三輪渓に水をとり、戸毎に通水。後には橋立川、湯の沢に水源を取り水路を開き新田を開墾。この水路が本当にその跡なのかは不明です。すみません。
円融寺には向かって右裏手の「未了の庭」の方から入って、表入口へ出ました。
朝曇り空の武甲山 9:38 (S)
ナンジャモンジャノキ/ヒトツバタゴ (下見時)
ナンジャモンジャノキの花は、未だ沢山咲いていてくれました。
ニガナ似の不明種 クサフジ 9:45
ハリエンジュ/ニセアカシア 9:45
写真撮影:(S)印・S.Akiraさん、(G)ガッコちゃん、無印 山桜
(つづく)
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3月に下下見に行った琴平丘陵、初夏となり本番の日を迎えました。
影森駅までは、乗換が多いのですが、いろいろな車両が見られて楽しい♪
沿線の四季の花々 ハリーポッター号
西武線の西武秩父駅から秩父鉄道・御花畑駅は鉄道会社が違い、乗り入れていないので歩かねばならないのです。線路はちゃんと並行して走っているのにねぇ これって連絡通路のお店が乗り入れを反対しているのかしら? 西武線の秋津とJRの新秋津と同様?
秩父鉄道 御花畑駅ホームと写真家 8:32 (S)
秩父鉄道・御花畑駅は、今年の1月にレトロ風大正浪漫風にリニューアルされたばかり。
影森駅と武甲山 8:45 (S)
因みに「影森」の地の由来は、武甲山の影の森とのこと。山の影が届く程間近に聳えています。(左の立派な駅舎に見えるのはお手洗い)
今井屋さん外観と味噌ポテト
「今井屋」さんに味噌ポテトの買い出しへ。なんと味噌ポテト1パックに焼きそば1パックのサービス付きという大盤振る舞い!(いつもそうとは限りませんよ〜💦)女将さん、ご馳走様でした
影森駅周辺をちょっと散策・・・
砂を積載した貨車 9:05 (S) 駅から護国観音を望む
貨物列車の警笛の音、重さに軋むレールの音が懐かしい。
これから向かう護国観音さまのお姿が山の中に・・・。
ハコネウツギ(G)
箱根ウツギ 9:16 (S) 稲荷神社 9:16 (S)
民家の塀の外にハコネウツギが滝のように溢れて咲いていました。ニシキウツギとハコネウツギは、どちらも紅白が混じり咲きますが、花筒の底部が「箱のように角張っている」のがハコネウツギ、覚えやすいでしょ?
札所26番岩井堂の別当寺 円融寺の牡丹 9:27 (S)
札所26番岩井堂は無人の為、お札はこちらで頂きます。円融寺には「未了の庭」「牡丹の庭」があり、どちらにも牡丹が沢山植えられています。下見時が満開でしたが、本番でも未だ咲いていてくれました。
萬松山円融寺(まんしょうざん えんゆうじ)
臨済宗建長寺派 ご本尊は「聖観世音菩薩(伝・恵心僧都作)
畠山重能(重忠の父)の開基と伝わることから、平安時代後期創建と推測。
秩父札所26番 岩井堂・萬松山円融寺のお札
これから「訪ねいる岩井堂」に期待が高まります。
本堂に参拝 円融寺門前 9:28 (S)
円融寺入口とその手前の影森用水跡?
影森用水は、安政四年(1857)当時の名主・関田宗太郎が私財を投じ、水の不便な影森村民の苦難を救うために三輪渓に水をとり、戸毎に通水。後には橋立川、湯の沢に水源を取り水路を開き新田を開墾。この水路が本当にその跡なのかは不明です。すみません。
円融寺には向かって右裏手の「未了の庭」の方から入って、表入口へ出ました。
朝曇り空の武甲山 9:38 (S)
ナンジャモンジャノキ/ヒトツバタゴ (下見時)
ナンジャモンジャノキの花は、未だ沢山咲いていてくれました。
ニガナ似の不明種 クサフジ 9:45
ハリエンジュ/ニセアカシア 9:45
写真撮影:(S)印・S.Akiraさん、(G)ガッコちゃん、無印 山桜
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2024年04月16日
客人/まろうど神社(栃木)
ご訪問ありがとうございます
客人(まろうど)神社 入口
鳥居左の建物の中の庚申塔など
客人神社 鳥居と階段
客人(まろうど)=稀人(まれひと)「稀なる来訪者」。
いかなるご縁か異国(常世/とこよ、隔世/かくりよ、祖先霊の住み賜う国)からこの地にやって来た客人は、悪霊悪疫から土地を守って下さる「神」として崇める信仰が芽生えた。お盆の行事もこの信仰との結びつきが考えられると言う。
*「まれびと」の称は1929(昭和4年)、民俗学者 折口信夫が提示。「客人」を「まれびと」と訓み、本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機とされる。沖縄・奄美諸島での「ニライカナイ」も遠い海の彼方の楽土=常世の国。
さて、この神社の主祭神は、武御名方命/タケミナカタノカミ とされています。
タケミナカタノカミは、「建」御名方神の表記が多いのですが、こちらでは敢えて「武」を用いているのにも意味があるかもしれません。どちらにしても建御名方神は、日本神話の国譲り(天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話)において、大国主命が国譲りの是非を委ねた事代主神が承諾した後も最後まで抵抗し、力比べをして諏訪の国まで投げ飛ばされ、諏訪神社に祀られた神様ですから、建や武の字を持たれるのも頷けます。
そう、主祭神が建御名方神(諏訪湖の龍神でもある所から水神、農業の神とされる)であれば「諏訪神社」である筈が、何故「客人神社」となっているのか。元は地主神が祀られていた場所に、建御名方神を勧請したので「客人神社」とされている訳でしょうか。
客人神社と言えば、昨年漸く初参りが叶った大宮の氷川神社の元宮とされるのが「門客人神社」。
大宮氷川神社境内図
門客人神社 本殿から向かって右に鎮座。
大宮氷川神社に氷川大神が勧請される前、この地には地主神「アラハバキ神」が祀られていました。(現在のご祭神は、八岐大蛇退治後、須佐之男命の妻となったクシナダヒメのご両親アシナヅチ・テナヅチ神。)
門客人神社が、氷川神社の中でも重要で、こちらにお参りしないと御利益半減となるとまで言われているのは、こちらこそが「元宮」だからなのでしょう。
それでは、大平町の客人神社に元々祀られていた神様はどなたなのか。先ずは、門氷川神社と同様にアラハバキ神として考えてみます。アラハバキ神は謎の多い神様で、縄文ブームの流れでは、あの「遮光器土偶」に擬えられたこともあり、また一本足、大蛇、大木等のお姿とも言われ、様々な考察があります。確か、「蛇」や「扇」の吉野裕子先生も考察されていますので、読み直してみたい。
河國一之宮砥鹿神社の社伝には、「アラハバキ神とはオオナムチノミコト(大国主命の異名)の荒魂(あらみたま)である」とあります。客人神社から更に登った山上の太平山神社の現在のご祭神は、
瓊瓊杵尊/ニニギノミコト、
天照大御神/アマテラスオオミカミ
豊受姫大神/トヨウケヒメノオオカミ
の三柱の神様ですが、第十一代垂仁天皇の御代に、
大物主神/オオモノヌシノカミ
天目一大神/アメノマヒトツノオオカミ
の神様が鎮座されたことが始まりとされています。今、こちらの二柱の神様は、太平山神社奥宮に祀られています。
大物主神とは、奈良の大神神社/オオミワ神社の御祭神で、こちらも大国主命の異名という説もあります。この辺りは、大和の元酒徒善人、瓜亀仙人さんに教えて頂きたい所です。
そして、天目一大神、こちらが今、とても気になる存在で、ついつい考えてしまうのですが、
「一つ目、一本足の神様」
というお姿は、出雲の製鉄の民(片目で火を見、片足で蹈鞴を踏む)に関わり、引いては、台風の姿(台風の目は一つで一本足)とも重なる様で荒々しいご神威を感じます。製鉄の神ということから、剣や武の神ともされています。
また、これは、私の個人的な思いですが、一つ目で一本足で鉄製となると「針」を連想してしまいます。針といえば、毎夜娘の元に忍んで通う神の正体(実は大物主神)を確かめるために神の衣に糸を通した針を刺しておいた所、糸は鍵穴を抜けて三室山まで続いていた・・・残りの糸が僅かに三巻だったので「三輪山」となったという伝えがあります。(後の三輪素麺にも繋がる)
そうだとそれば、大物主神と天目一大神が共に祀られていることにも縁(えにし)を感じてしまうのです。
少し話が逸れてしまったようですが・・・いつものことで(。。;) 太平山神社奥宮に今も祀られている大物主神と天目一大神が、麓の客人神社で嘗て祀られていたアラハバキ神のまたのお姿であったとしてもおかしくない、今はそう感じています。しかし、その辺りのことは、神社の由来にも何も書かれていないのは、敢えてなのでしょうか。
「鍵穴」と言えば、前方後円墳の形は鍵穴ですよね。過去への扉の鍵のように思えて来ました。太平山から眺めた「陸の松島」の中には、古墳としか思えないような小山もありました。久し振りに妄想の世界に浸れたのも、太平山・晃石山へ詣でたお蔭、神様に呼んで頂けたのかもしれません。
下山してから、この立て札に出会いました。やはり・・・しかも将門さま! ご縁です。
「天地(あめつち)に遊ぶ」は、こうした考察を広げる場でもあったこと、懐かしく思い出しました。
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客人(まろうど)神社 入口
鳥居左の建物の中の庚申塔など
客人神社 鳥居と階段
客人(まろうど)=稀人(まれひと)「稀なる来訪者」。
いかなるご縁か異国(常世/とこよ、隔世/かくりよ、祖先霊の住み賜う国)からこの地にやって来た客人は、悪霊悪疫から土地を守って下さる「神」として崇める信仰が芽生えた。お盆の行事もこの信仰との結びつきが考えられると言う。
*「まれびと」の称は1929(昭和4年)、民俗学者 折口信夫が提示。「客人」を「まれびと」と訓み、本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機とされる。沖縄・奄美諸島での「ニライカナイ」も遠い海の彼方の楽土=常世の国。
さて、この神社の主祭神は、武御名方命/タケミナカタノカミ とされています。
タケミナカタノカミは、「建」御名方神の表記が多いのですが、こちらでは敢えて「武」を用いているのにも意味があるかもしれません。どちらにしても建御名方神は、日本神話の国譲り(天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話)において、大国主命が国譲りの是非を委ねた事代主神が承諾した後も最後まで抵抗し、力比べをして諏訪の国まで投げ飛ばされ、諏訪神社に祀られた神様ですから、建や武の字を持たれるのも頷けます。
そう、主祭神が建御名方神(諏訪湖の龍神でもある所から水神、農業の神とされる)であれば「諏訪神社」である筈が、何故「客人神社」となっているのか。元は地主神が祀られていた場所に、建御名方神を勧請したので「客人神社」とされている訳でしょうか。
客人神社と言えば、昨年漸く初参りが叶った大宮の氷川神社の元宮とされるのが「門客人神社」。
大宮氷川神社境内図
門客人神社 本殿から向かって右に鎮座。
大宮氷川神社に氷川大神が勧請される前、この地には地主神「アラハバキ神」が祀られていました。(現在のご祭神は、八岐大蛇退治後、須佐之男命の妻となったクシナダヒメのご両親アシナヅチ・テナヅチ神。)
門客人神社が、氷川神社の中でも重要で、こちらにお参りしないと御利益半減となるとまで言われているのは、こちらこそが「元宮」だからなのでしょう。
それでは、大平町の客人神社に元々祀られていた神様はどなたなのか。先ずは、門氷川神社と同様にアラハバキ神として考えてみます。アラハバキ神は謎の多い神様で、縄文ブームの流れでは、あの「遮光器土偶」に擬えられたこともあり、また一本足、大蛇、大木等のお姿とも言われ、様々な考察があります。確か、「蛇」や「扇」の吉野裕子先生も考察されていますので、読み直してみたい。
河國一之宮砥鹿神社の社伝には、「アラハバキ神とはオオナムチノミコト(大国主命の異名)の荒魂(あらみたま)である」とあります。客人神社から更に登った山上の太平山神社の現在のご祭神は、
瓊瓊杵尊/ニニギノミコト、
天照大御神/アマテラスオオミカミ
豊受姫大神/トヨウケヒメノオオカミ
の三柱の神様ですが、第十一代垂仁天皇の御代に、
大物主神/オオモノヌシノカミ
天目一大神/アメノマヒトツノオオカミ
の神様が鎮座されたことが始まりとされています。今、こちらの二柱の神様は、太平山神社奥宮に祀られています。
大物主神とは、奈良の大神神社/オオミワ神社の御祭神で、こちらも大国主命の異名という説もあります。この辺りは、大和の元酒徒善人、瓜亀仙人さんに教えて頂きたい所です。
そして、天目一大神、こちらが今、とても気になる存在で、ついつい考えてしまうのですが、
「一つ目、一本足の神様」
というお姿は、出雲の製鉄の民(片目で火を見、片足で蹈鞴を踏む)に関わり、引いては、台風の姿(台風の目は一つで一本足)とも重なる様で荒々しいご神威を感じます。製鉄の神ということから、剣や武の神ともされています。
また、これは、私の個人的な思いですが、一つ目で一本足で鉄製となると「針」を連想してしまいます。針といえば、毎夜娘の元に忍んで通う神の正体(実は大物主神)を確かめるために神の衣に糸を通した針を刺しておいた所、糸は鍵穴を抜けて三室山まで続いていた・・・残りの糸が僅かに三巻だったので「三輪山」となったという伝えがあります。(後の三輪素麺にも繋がる)
そうだとそれば、大物主神と天目一大神が共に祀られていることにも縁(えにし)を感じてしまうのです。
少し話が逸れてしまったようですが・・・いつものことで(。。;) 太平山神社奥宮に今も祀られている大物主神と天目一大神が、麓の客人神社で嘗て祀られていたアラハバキ神のまたのお姿であったとしてもおかしくない、今はそう感じています。しかし、その辺りのことは、神社の由来にも何も書かれていないのは、敢えてなのでしょうか。
「鍵穴」と言えば、前方後円墳の形は鍵穴ですよね。過去への扉の鍵のように思えて来ました。太平山から眺めた「陸の松島」の中には、古墳としか思えないような小山もありました。久し振りに妄想の世界に浸れたのも、太平山・晃石山へ詣でたお蔭、神様に呼んで頂けたのかもしれません。
下山してから、この立て札に出会いました。やはり・・・しかも将門さま! ご縁です。
「天地(あめつち)に遊ぶ」は、こうした考察を広げる場でもあったこと、懐かしく思い出しました。
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2024年01月30日
低山はいかい 仙元山界隈 (6)西光寺へ
ご訪問&応援、ありがとうございます
(低山はいかい 仙元山界隈 (1)〜(5)は、開催日の1月24日に(1)を、以降続けての日付に移動しました。この(6)も、皆さんに概ねご覧頂けた後、そちらの続きに移動します。)
里の風景に癒やされながら歩いていると、イチョウらしい樹形ながら著しく樹高が低く、しかも並んで植えられている木が沢山見えて来ました。
「これは、若しかしてギンナン畑では!?」
そう思って近づくと、やはり大粒のギンナンが無人販売所に置かれていました。ふっくら大きくて美味しそう!しかもお安い♪
ギンナン畑 無人販売コーナー
真っ赤なタカノツメも一緒にお土産に購入しました。ギンナン(小袋200円)、丸々と実が詰まっていてとても美味しかったです。 タカノツメ(100円)もそろそろ切れそうだったので、とってもタイムリー☆
ほころびかけた白梅の蕾 村社 下里八宮神社
八宮神社は、後に7つの神社に分霊したので、その七宮の総社ということで「八宮神社」となったそうです。
ご祭神が、高龗神(たかおかみのかみ)他、伊豆能賣神(いずのめのかみ)と、古事記などでもお名前だけで出自が明らかにされていない謎の神々なのです。
また、墨江三龗神・海見三柱神の方は、住吉三神と関係がありそうで、とてもとても気になるのですが、これはまたの機会に・・・
木橋を渡る
木橋を渡ったこの辺りは西光寺裏の北向き斜面で、「カタクリの里」としてカタクリの自生地が保護されています。季節には斜面一面がカタクリの花で薄紫色に染まるということで、是非またその頃に訪れてみたいです。
西光寺 縁起
瑞龍山西光寺は、曹洞宗のお寺で、天文2年(1533)西光院殿前黄門瑞龍浄喜大居士が創建。江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。本堂内の奪衣婆像は、「しょうづかのお婆さん」と称されて産婦の祈願として、飛び地境内の龍谷薬師堂は眼病の御利益として信仰を集めているそうです。
鐘楼門
山門の上に鐘楼が下がっているのを初めて見ました。そして、何と、その鐘楼はFITの大先輩のS女史のご実家が奉納されたとの由。品格のある方なので、さすが納得の名家なのでしょう。
六地蔵
辻に並ぶ六地蔵様に見送られて、楽しい小川町低山はいかいもそろそろ終わり、バス停に向かいます。
ふりかえりの会は、川越! 小京都から小江戸へ〜♪(おわり)
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(低山はいかい 仙元山界隈 (1)〜(5)は、開催日の1月24日に(1)を、以降続けての日付に移動しました。この(6)も、皆さんに概ねご覧頂けた後、そちらの続きに移動します。)
里の風景に癒やされながら歩いていると、イチョウらしい樹形ながら著しく樹高が低く、しかも並んで植えられている木が沢山見えて来ました。
「これは、若しかしてギンナン畑では!?」
そう思って近づくと、やはり大粒のギンナンが無人販売所に置かれていました。ふっくら大きくて美味しそう!しかもお安い♪
ギンナン畑 無人販売コーナー
真っ赤なタカノツメも一緒にお土産に購入しました。ギンナン(小袋200円)、丸々と実が詰まっていてとても美味しかったです。 タカノツメ(100円)もそろそろ切れそうだったので、とってもタイムリー☆
ほころびかけた白梅の蕾 村社 下里八宮神社
八宮神社は、後に7つの神社に分霊したので、その七宮の総社ということで「八宮神社」となったそうです。
ご祭神が、高龗神(たかおかみのかみ)他、伊豆能賣神(いずのめのかみ)と、古事記などでもお名前だけで出自が明らかにされていない謎の神々なのです。
また、墨江三龗神・海見三柱神の方は、住吉三神と関係がありそうで、とてもとても気になるのですが、これはまたの機会に・・・
木橋を渡る
木橋を渡ったこの辺りは西光寺裏の北向き斜面で、「カタクリの里」としてカタクリの自生地が保護されています。季節には斜面一面がカタクリの花で薄紫色に染まるということで、是非またその頃に訪れてみたいです。
西光寺 縁起
瑞龍山西光寺は、曹洞宗のお寺で、天文2年(1533)西光院殿前黄門瑞龍浄喜大居士が創建。江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。本堂内の奪衣婆像は、「しょうづかのお婆さん」と称されて産婦の祈願として、飛び地境内の龍谷薬師堂は眼病の御利益として信仰を集めているそうです。
鐘楼門
山門の上に鐘楼が下がっているのを初めて見ました。そして、何と、その鐘楼はFITの大先輩のS女史のご実家が奉納されたとの由。品格のある方なので、さすが納得の名家なのでしょう。
六地蔵
辻に並ぶ六地蔵様に見送られて、楽しい小川町低山はいかいもそろそろ終わり、バス停に向かいます。
ふりかえりの会は、川越! 小京都から小江戸へ〜♪(おわり)
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2024年01月25日
低山はいかい 仙元山界隈 (2)板碑
ご訪問&応援、ありがとうございます
和紙体験学習センターを出て進むと六地蔵さまのお出迎え。
六地蔵 馬頭観世音板碑蕎麦のお堂
馬頭観世音板碑 石尊大権現の石灯籠
交通の要地という土地柄、辻には馬頭観世音さま。
先月登った同じ小川の石尊山にも祀られていた石尊大権現さまも!
槻川
豊かな川の流れに恵まれ、和紙漉きや酒造が栄え、町を支えてきました。
板碑いろいろ
何故こんなに板碑があちこちに建てられているのか、この後、理解する時が来ます。
北青山圓城寺
町指定文化財 二連板石塔婆二基 (鎌倉時代後期) 緑泥片岩
向かって左側が延文六年(1361)、右側が正中二年(1325)
一枚の板碑に二枚分が彫られている二連(双式)板碑が二基並んでいます。
右の板塔婆の上部 蓮華座に阿弥陀如来(キリーク)の薬研彫り
左の板塔婆の全体
どちらにも「阿弥陀如来」を表わす種子字の「キリーク」が蓮華座の上に薬研彫りされ二つ並んでいます。その下には「光明真言」が梵字で彫られています。
梵字の中で、仏の姿を現わすものを特に「種子、種子字」と言います。蓮華座の上に置かれていることからも、そのことが分かりますね。
(参考)円城寺二連板碑「石仏と石塔」河合哲雄さんのHPより
圓城寺を出て少し進むと・・・
JR八高線 単線! 道標
先月も見て驚きましたが、東京のJRなのに単線です。先に敷かれていた私鉄の東武東上線の方が利用客が多そうですが、八高線は南北を繋ぐ役割を担っていて貴重な存在です。
やっと道標に「仙元山」の文字が!
(つづく)
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六地蔵 馬頭観世音板碑蕎麦のお堂
馬頭観世音板碑 石尊大権現の石灯籠
交通の要地という土地柄、辻には馬頭観世音さま。
先月登った同じ小川の石尊山にも祀られていた石尊大権現さまも!
槻川
豊かな川の流れに恵まれ、和紙漉きや酒造が栄え、町を支えてきました。
板碑いろいろ
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北青山圓城寺
町指定文化財 二連板石塔婆二基 (鎌倉時代後期) 緑泥片岩
向かって左側が延文六年(1361)、右側が正中二年(1325)
一枚の板碑に二枚分が彫られている二連(双式)板碑が二基並んでいます。
右の板塔婆の上部 蓮華座に阿弥陀如来(キリーク)の薬研彫り
左の板塔婆の全体
どちらにも「阿弥陀如来」を表わす種子字の「キリーク」が蓮華座の上に薬研彫りされ二つ並んでいます。その下には「光明真言」が梵字で彫られています。
梵字の中で、仏の姿を現わすものを特に「種子、種子字」と言います。蓮華座の上に置かれていることからも、そのことが分かりますね。
(参考)円城寺二連板碑「石仏と石塔」河合哲雄さんのHPより
圓城寺を出て少し進むと・・・
JR八高線 単線! 道標
先月も見て驚きましたが、東京のJRなのに単線です。先に敷かれていた私鉄の東武東上線の方が利用客が多そうですが、八高線は南北を繋ぐ役割を担っていて貴重な存在です。
やっと道標に「仙元山」の文字が!
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2023年12月13日
御嶽神社参拝 下りのお楽しみ
89歳を迎えた母、神坐す山の御力を得て、無事登頂。玉垣の奥からの「奥ノ院遙拝」も叶え、感激でした。
御嶽神社 奥ノ院(男具那社、男具那山)遙拝所
何度拝んでも美しい姿。多摩湖から見える御岳山は、姿から見て、この奥ノ院かなと思います。美しい円錐形の山容から「甲羅山」ともよばれていたそうです。
また、日本武尊が、この地に武具を納めたことから「武蔵」の名があるとも伝わります。それで畠山重忠公もこちらに武具を奉納されたのでしょう。
常磐堅磐社(ときわかきわしゃ)
朝日が差すお社は、また格別の神々しさ。
参道の老舗「紅葉屋」名物の胡桃蕎麦
参拝後のお楽しみは「紅葉屋さん」。行列が出来ていて諦めることも多いですが、今年は8月に続いてまた頂くことが出来ました。胡桃のつけ汁は見た目よりもふんわりのさっぱり系、幾ら頂いても飽きることなく、また訪れたくなってしまいます。女将さんの笑顔もいつも素敵、舞茸の天ぷらもご馳走様でした。
リンドウ
ちょっと道から外れていましたが、青い花に呼ばれ、出会うことが出来ました。
早朝とはまた別の光に輝く紅葉
同じ景色も違って見えます。
山々の展望
キチジョウソウ テンナンショウの仲間
東馬場家
母とお茶の寄り道をしたかったのですが、この日はお休みで残念。
ヤクシソウ
ケーブル近くの赤鳥居 ナギナタコウジュ
前日は、この辺りから母の歩が進まずドキドキしましたが、遂に無事、赤鳥居まで戻って来られて、心底ホッとしました。背筋が伸びた時の母の姿と薙刀コウジュの凜々しさが重なりました。
ツリフネソウ キバナアキギリ
私がLINEで送る山野草の写真を見て、母は、
「山に行って可愛いお花を見てみたい」
とも言い出したので、秋の花が咲き残っていてくれて、とても嬉しかったです。
神様、最後の最後まで母に山の恵みを見せて下さり、ありがとうございました。
さて、母は『また山へ行きたい』と言ってくれるかな? どこなら登れるかなぁ
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2023年12月11日
御岳山 89歳バースディ登頂
八十路最後の誕生日記念に「山に行きたい!」と言っていた母・・・1日目は美味しいお蕎麦も頂き元気いっぱい、一番心配していた急坂、バス停からケーブルカー乗り場までも無事にクリアしたのに、何故かケーブルカーを降りて広場でひと休みしてから急に元気が無くなり、
「大丈夫って騙されてこんな所まで来ちゃって、どうする?」
などと言いだし、少し歩いては止まるの繰り返し・・・
『ああ、これは明日、神社まではとても行けないなぁ』
と、内心諦めの境地でした。
今、思い返すと、急に高い所へ上がったので少し酸欠か血圧が不安定になっていたのかもしれません。歳を重ねるということは、思いもしない症状が出るものですよね。毎日平地をスタスタ散歩しているからと言っても、やはり山は状況が異なります。そして一緒に暮らしていない為に、そのようなことにも気遣いが及ばず情けない。ごめんなさい(。。;)
それがどうでしょう! 夕朝とお山の神様と一緒にお食事し猪などの山の幸パワーを得て、2種類のお風呂に朝晩2回ずつ入って英気を養えたのか、翌朝は見違えるほど元気溌剌に回復したのです。
山香荘 朝食
朝から食べきれない程のご馳走。蒟蒻が美味しい!
苔むす飛び石に紅葉の彩り。さぁ、御嶽神社めざして出発です。
お世話になった山香荘、名残惜しい気持・・・
母は、ストックを持つのを頑なに拒否していましたが、
「騙されたと思って試しに使ってみて」
と、半ば無理矢理持たせた所、見事に使いこなし始めました。流石は元実業団バレーボール選手!
神代欅も応援してくれています。階段もなんのその!
殆ど休むことなく、テンポ良く歩き出してビックリ!
紅葉の鮮やかさも元気をくれます。
最後の階段、もう一息、やった〜!拝殿前に到達、仁王立ち(笑)
背骨を圧迫骨折してから座高が縮んでしまいましたが、脚は長いのです。胸を張って、背中、丸めないでね。
Vサインや\(^o^)/の写真も撮りましたが、流石に勝手に顔の写った写真をアップしては怒られそうなので止めておきま〜す。
一歩一歩の母の山登りは、すれ違う方々の目に留まり、私が、
「今日、89歳の誕生日なんですよ〜」
というと、皆さん
「おお〜!そんなお歳には見えないです。」
等と驚いて拍手してくださるので、母も満更ではない様子でした。いいお誕生日になって、よかったねぇ♪
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2023年12月05日
御岳山 早朝参拝帰り道
早朝の武蔵御嶽神社、拝殿より後ろの玉垣内には縄が張ってあってお参り叶いませんでしたので、縄の手前から手を合せました。
拝殿 左手
武蔵御嶽神社 本殿 常磐堅磐社(ときわかきわしゃ)
一間社流造で漆黒に塗られ荘厳な装飾が施されている「常磐堅磐社」現在は諸国一宮をお祀りしていますが、この社殿は永正8年(1511年)以前造営の御嶽神社旧本殿で、東京都指定有形文化財。
宝物殿(下から) 参道階段
三柱社
大歳(おおとし)神(農耕神・食物神)、御歳(みとし)神(大歳神の子、穀物神)、大山咋(おおやまくい)神(大歳神の子、山の神、酒の神)の三柱をお祀りする社。
今まで見過ごしていましたが、左手前の謎の石彫刻に目が留まりました。
「えっ、何これ??」
大山咋神は山の神であり、松尾さまとも呼ばれる酒の神でもあるので、山から湧き出て酒の元ともなる水の恵みを表わしているのか・・・一対に見える2つの彫刻の石の素材が異なるのも気になります。大分古びてはいますが、フォルムはどうみても現代風ですよね。
さて、登ってきた道を一旦ここまで下りたのですが、この彫刻が気になって佇んでいる内に、
畠山重忠公に、
「おおい、こっちの道もよいぞ〜!」
と呼ばれたような気がして、それはそれは仰せの通りと上り返し、宝物殿裏手の道(女坂)を下りることにしました。
重忠公、戻って参りました! 後ろから失礼・・・後ろ姿も凜々しくて素敵。
良く見れば、重忠公、本当に
「こちらを行け!」
と道を指し示しているようにも・・・
紅葉の下の重忠公 古びた庫裏?
「女坂」とは言うものの、階段ではないというだけで結構な急斜面なので、選択はお好みと体調によりけりですね。私は階段が苦手なので・・・。
(つづく)
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2023年12月04日
御岳山 武蔵御嶽神社ご来光
日帰りで登れる御岳山に折角一泊したのですから、ご来光を拝まねばと夜明けを待って御嶽神社を目指しました。
東の空は曙色
この双耳峰は筑波山?
実は、ちょっと寝過ごしてしまい、大急ぎで支度して外に飛び出ました! 早く神社に登らないとお日様が・・・日の出と競争です。
朝日を浴びる「神代欅」神々しい
神社に着いたと同時にお日様も上って、何とか間に合いました〜
武蔵御嶽神社の眷属さんは、日本武尊を案内したと伝わる白い山犬(狼)さんです。
この白狼さんは、日本武尊により「大口真神(お犬さま)」と名付けられ、この地を守ってくれています。秩父の三峯神社も山犬さんでしたね。日本武尊の由来がある神社さんは、山犬さんがお守りしています。
「もののけ姫」に出てくる白狼のモロたちも大口真神さんの一族なのでしょうか。
真っ赤な神社が一層明々と
圧倒的な美しさ、思わず手を合せ頭を垂れました。
武蔵御嶽(みたけ)神社の御嶽とは、修験道の中心地である奈良県吉野地方の金峯山(きんぷせん)のこと。(木曽の御嶽(おんたけ)山とは関係がありません)
吉野金峯山寺のご本尊は、山桜に彫られた蔵王大権現さまと吉野山人さんより伺っていますので、山桜のご縁で繋がっているようで嬉しいのです。
坂東武士の鑑 畠山重忠公の像
御嶽神社の宝物殿には、畠山重忠公が奉納された
【国宝】赤糸威大鎧(あかいどおどしのおおよろい)
をはじめてとする武具等が保管展示されています。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、中川大志さんが演じ、初めは線が細すぎかなと思いましたが、なかなかの豪傑ぶり、イケメンで気高く清廉潔白な人柄、素晴らしい重忠でした。
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2023年06月28日
低山はいかい 戸倉城山・光厳寺〜広徳寺
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光厳寺から里へ下り、再び広徳寺へと登ってきました。
ヤブカンゾウとフランス菊
ヤブカンゾウもフランス菊も外来種ですが、もはや日本の里山の景色に馴染んでいます。
龍角山 広徳寺 臨済宗建長寺派
応安6年(1373年)開山(境域 東京都指定史跡)
心源希徹により開山。開基の龍応智雲尼の夫の正応長者が飼育していた馬が一本角の龍を産んだことに因み、「龍角山」の山号となすと伝わる。
(龍角散?と直ぐ違うことを想像するのが悪い癖)
一旦衰微後、北条氏康によって再興。後北条氏と関係が深く、関連文書が残る。
江戸時代には寺領40石。付近では高尾山薬王院や深大寺に次ぐもので、末寺24寺、塔頭3寺の大寺院だった。
総門(あきる野市有形文化財)19世紀前期
屋根の構造
僧門 裏手から
山門(三門)(あきる野市有形文化財)1720年築
大銀杏
鈴生りのギンナン
鐘楼 1759年 消火用放水施設?
本堂1765年・庫裏 1780年
屋根には後北条家の三つ鱗紋が並んでいます。
茅葺き屋根には、シダ(シノブ?)がびっしり!
本堂 裏手
茅葺き屋根に生えた植物
何が生えているのかじっくり観察したかったけれど、ちょっと遠すぎでした。
裏の池のコウホネ と ギンヤンマ?
モリアオガエルの卵塊
コウヨウザン(中国原産) タラヨウ(東京都指定天然記念物)実
カヤの巨樹(東京都指定天然記念物) 樹齢不明
入口の総門から離れたずっと奥なので、ここまで近づいてみたのは初めてでした。間近で仰ぐと実に堂々たる迫力! 猛暑ではない季節に再訪して、この丘でずっとカヤと一緒に佇んでいたくなりました。
供養塔 庚申塚など
ありがとう、戸倉城山!
最後に戸倉城山がまたも姿を表わし、炎暑で熱中症になりそうな中でも、最後まで頑張った私達を見送ってくれていました。
さぁ、もう一息、「ふりかえり」でのビールで乾ぱ〜い!を目指してガンバロウ!
(おわり)
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低山はいかい 戸倉城山〜光厳(こうごん)寺
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2023.06.28
FIT(Forest Instructor Tokyo)の月例会員交流の場「低山はいかい」で戸倉城山へ登った後の続きです。
戸倉城山からの岩だらけで転げ落ちる程の勾配を四肢を駆使して慎重に光厳寺の登山口へ下山。どれだけキツいかと言えば、皆さんの感想は・・・
「これは山に慣れてない人を連れて来るのは恐いね〜」
「無理無理〜!絶対にダメ!」
「人の心配はいいから、自分の安全確保!」
「いやいやいや、こんな所を下りるとは思わなかった・・・」
「・・・」ひたすら無言。
山桜も余裕無く、写真1枚撮っておりませんでした。因みにこの岩だらけの崖は五日市川上構造線の断層崖だそうです。
とは言え、さすがは全員森林インストラクター、誰一人遅れること無く無事に光厳寺へ下りて来ました。
武州禅窟 鷲峰山 光厳寺 臨済宗建長寺派
東大寺・良弁僧正が当地に創建した富倉山慶雲寺が前身。
足利尊氏の命で足利基氏が慶雲寺奥の院を改修、堂宇を整備。
建武元年(1334)建長寺三十八世正宗広智禅師を開山に迎えた。
南北朝動乱時、足利基氏が弥仁親王(後の北朝第四代後光厳院)
を当地に保護、「光厳寺」の勅額を拝領し寺号となす。
徳川家康の関東入国時、天正19年(1591)寺領20石の御朱印状を
受領、塔頭五寺、末寺二八寺を擁する中本寺格の寺院であった。
・・・またまた瓜亀仙人さんの大和奈良との関係が浮かび上がってきました。歴史は今も脈々と息づいていますね。
「こうごんじ」と読むのですが、「ひかるげんじ?」で「光源氏」や「光GENJI」を思い出したのは私だけ?
ホンモンジゴケ
アップで見ると、お釈迦さまの螺髪の様にクルリと丸まっていました。(濡れたらどうなる?)
池上本門寺由来のこのコケは、神社仏閣等の銅葺屋根の雨滴が滴る場所など、銅イオンの豊富な場所ばかりに生えるのだそうです。銅は植物には有害そうなのに、適応できる性質を持っているのでしょう。
ロープワーク 万一を考え、ヒゲ爺救護隊長は重いロープを持参して下さっていました。折角なので、ロープワークの実習です!
ふたえテグス結び 巻き付け結び
ふたえテグス結びで解けない輪を作り、ロープに巻き付け結びにして取り付けます。この輪に自分のロープを通して身体に回し、もやい結びでくくりつけます。
もやいとは「舫い」で、船を波止場に係留する時も用い、犬の首輪としてや被災者の身体などを締め付けずに確保する時にも使用する汎用度の高い結び方です。
もやい結び
当日、身体では覚えていましたが、はっきり思い出せなかったガールスカウトで習った覚え方は、
「お池の中からドジョウが飛び出し滝を潜ってお池にまたドボン」
でした。皆さん、覚えられたでしょうか?
お地蔵さま
戸倉城山
タイトゴメ? オノマンネングサ
タイトゴメは自生地(関東以西 海岸の岩場など)ではないので、持ち込まれたものか園芸種かもしれません。
ヒメウラジロ
橋から見えた清流
ウラハグサ(裏葉草)別名フウチソウ(風知草)
縞入 基本種?
清流
戸倉城山 再び
マルバマンネングサ
朝ドラ「らんまん」で話題の「マルバマンネングサ」の星形の花が咲いていてくれて感激。
バイカツツジ ハグロソウ
バイカツツジも沢山、ピンクの濃いハグロソウが印象的。
秋川沿いの藪漕ぎ
「え〜っ、ここはコースなの?」と言うような道なき藪にトライ! 冒険は楽しかったけれど、すこ〜し道を逸れていたようです(^^;)
ムラサキニガナ
大好きな紫のシャンデリアが栄養が良いのか見上げる程大きく育って満開でした〜♪
光厳寺にも落ちていた大きな杏がまた落ちていて、お寺では遠慮していた面々も思わず齧り付き、その甘酸っぱさで子供の頃に逆戻りしていました。
戸倉城山の絶壁度を再確認
何度も振り返り見た戸倉城山。最後に仰いだ山容で、嗚呼、あの絶壁を下りてきたのだと再確認。頑張って下りてきましたね〜
さぁ、いよいよ次は、名古刹 広徳寺です!
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2023年06月02日
高尾 長房白山神社
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高尾野鳥倶楽部で南浅川の鳥見に出掛けた折、何かに引かれるように参拝できた高尾の長房白山神社、最初の鳥居下の階段に咲いていた小さな花たち
スミレ 2023.04.08 ヒメウズ
所在地は、八王子市高尾の廿里町(とどりまち)。
目の前の浅川の向こうには高尾山という立地です。
享禄3年(1454)に加賀一の宮を勧請して創建。
天文22年(1553)には滝山城主大石源左衛門尉縄周が社殿を造営。
ご祭神は、伊邪那美命(いざなみのみこと)です。
長房白山神社遠景
最初の踊り場の石祠
上り始めた時は、先がどれだけ続くのか分かりませんでしたが・・・
行けども行けども尽きぬ階段
時々来し方を振り返り確かめつつ登り・・・やっと階段の終わりが見えて来ました。
本殿の覆屋が奥まって見えています。
その手前の狛犬さん達
本殿 覆屋
赤い本殿
更にまた登ると奥宮が鎮まっておいでだとか・・・皆を待たせてしまっていたので、そこまでワガママは出来ませんでした。
拝殿前の「厄落とし玉」
これも試してみませんでしたので、次回に持ち越しです。
クロコノマチョウ(黒木間蝶)
狭山丘陵でも時折みかける大型の森の中を飛ぶ蝶は、余りにも擬態が上手で、止まっていたら気づけないでしょう。
コバノタツナミ アリアケスミレ
拝殿前の広場には、アリアケスミレが沢山で、そちらに夢中でした。
野鳥観察に出掛けて来て、まさか初めての神社にお参りできるとは思わず、ついつい自然観察に目がいきがちで、拝殿などの写真も撮っておらず、中途半端な記録で心残り。きっと「またおいでなさい」という神様の思し召しなのでしょう。
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2023年01月22日
秩父・水潜寺(破風山つづき)
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満願の湯でゆるりとつるつるの温泉に浸って温まった後、バスに乗り、朝下車した華厳の滝方面に戻り「札所前」下車、秩父札所三十四番の結願の寺へと向かいました。札所巡りは未だ終わってないのに、先に満願の湯に入ってしまいましたが、大丈夫なのかな・・・?
水潜寺(すいせんじ)は、埼玉県秩父郡皆野町の曹洞宗寺院
山号は日沢山(にったくさん)
本尊は千手観世音菩薩
秩父三十四箇所、日本百観音霊場「結願(けちがん)」の寺
秩父札所三十四番 日沢山 水潜寺HP
バス停の直ぐ前から、苔むした参道が続きます。
目を惹かれる美しい苔 二界萬霊を鎮める石塔
水潜寺境内図
有り難い観音さま方がお出迎え
六地蔵
本堂
長命水の傍らの水掛け地蔵に祈願中のつーさん 可愛い苔たち
水潜りの岩屋へと続く道
水潜りの岩屋は、残念乍ら現在非公開でした。
讃佛堂
お札を頂くのに一生懸命で、観音堂を撮っていませんでした・・・(T0T)
千手観音さま 日沢山水潜寺のお札
今度はお見送りして下さる観音様方
帰りのバスがなかなか来なくて、日陰の寒さの中、苔などを観察。満願の湯で温まっていて幸いでした。
地衣類のハナゴケ属の仲間 アカミゴケ?(参考)5月に見た似たもの
苔たち 苔や地衣類、未同定のままの掲載でごめんなさい。分かり次第追記します。
破風山は、素晴らしい眺望、バラエティに飛んだ山道、古から続く信仰の山、また植生も豊かで、とても魅力的な山でした。
また、花の頃に再訪したい山リストが増えました🎵
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