2006年11月16日

北鎌倉・円覚寺

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 関東の道の多くは鎌倉に通じているのですが、私の家の近くにも、「鎌倉古道」という往時の面影を残す道があります。 散歩の時にここを通ると、馬のヒヅメの音が聞こえ、無性に鎌倉へ行きたくなります。

 「いざ、鎌倉!」 今回は鎌倉は初めてという友達の希望で、北鎌倉の円覚寺をゆったりと時間をかけて回り、その足で不思議なご縁に導かれるまま、今思い出してもちょっと大胆な冒険をしてしまいました。

 北鎌倉駅を降りると、ふわっと甘い油揚げを炊く匂い。名物に・・・の言葉が頭をかすめ、いつも素通りしていたのですが、今回は朝が早かったのもあり、ついに空腹に負けて購入。 
 「お昼にお食事処が混んでいたら、これを食べればいいしね!」
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               瑞鹿山円覚寺 三門

 三門をくぐるとベンチが・・・ちょっとお茶を飲んで一服・・・。
寿司折から漏れる誘惑の香りにまたしても負け、早々に戴くことに。
未だ作りたての為か、お揚げと酢飯がしっくりしていませんでしたが、
空腹は最上の・・・です。 美味しゅうございました^^

  二人で一折の助六寿司で軽くお腹を満たした後、この日第一の目的地、
佛日庵へ向いました。 今回の旅、私はお供の腰元気分。 主役の友達
が写真を撮っていたのを傍観、どういう訳か自分も撮った気になって
いたようで、後で殆ど写真を撮っていなかったことに気付きました。

仕方がないので、宜しければ春先に佛日庵を訪ねた時の日記を・・・。
http://yamasakuran.seesaa.net/article/14691654.html
この日記の中にある緋毛氈をしいた腰掛でお薄と豆鳩のお菓子を
戴きました。 佛日庵は本堂?とお茶室「烟足軒」が工事中で、
いつもの静けさはありませんでしたが、非公開のお茶室の中が少し
だけ覗けました。 とても人懐っこいワンコが撫でてくだ〜さいと
ばかりにお腹を上にしてゴロリ。撫で撫でしながら、ひらりんちの
小太郎くんを思い出して可笑しくなりました。

 その後は一番奥の黄梅院で聖観音さまを拝み、咲き零れる秋草に
心和まされながらまた登ってきた道を戻ると、国宝の舎利殿を背景に
大勢のお坊様方が記念撮影中・・・その様子をまたカメラに収める人達。
私も撮ろうとしたのですが、真っ白な長いお髯の方を認めたら、
シャッターが切れなくなってしまったので、それ以上の失礼はやめて
置きました。
 
 前回は法事の準備中で入れなかった方丈のお庭で大きなビャクシン
の木と百観音さんを拝み、続いて山の上の弁天堂へ階段を昇りますと、
いつも混雑している茶店もこの日はひっそりと静かで拍子抜け。 
錦に染まり始めた北鎌倉の山々をゆったりと眺めることが出来ました。

 三門を挟んで向かい側の塔頭(たっちゅう)松嶺院は、春の牡丹で
有名ですが、今は秋の草花が可憐に咲いていました。鎌倉とんぼさん
お勧めのこの塔頭は、春秋の限定期間のみの公開です。
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 (写真左から、柿とピラカンサ、リンドウ、大文字草)
 (右2枚の写真は炉開きの日記でも使用しました。)

 最後に弓矢が沢山納められている桂昌庵と弓の稽古場を拝見し
円覚寺を後に致しました。 これだけ時間をとって何度来ていても
未だに全てを拝観できずにいます。 今度は冬に来ようかな。
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2006年05月07日

戸隠の由来伝説

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        奥社 随神門 

戸隠神社は、次の5つの神社(社の位置の上から)

    奥社:ご祭神 天手力男神・アメノタヂカラオノカミ
 九頭龍社:ご祭神 九頭竜大神・クズリュウノオオカミ
    中社:ご祭神 天八意思兼命・アメノヤゴコロオモイカネノミコト
火之御子社:ご祭神 天鈿女命・アメノウズメノミコ
   宝光社:ご祭神 天表春命・アメノウワハルノミコト

の総称で、元々の土地神様であった九頭竜大神以外は、天岩戸(アメノイワト)開きの神事に功績のあった神々様をお祀りしています。

 戸隠神社公式HP http://www.togakushi-jinja.jp/

  奥社の天手力男神様にまつわる「戸隠の由来神話(古事記)

 天照大御神が弟神スサノオノミコトの振る舞いを悲しみ、天岩戸にお隠れになってしまった時、オモイカネノミコトの名案により、アメノウズメノミコトが天岩戸の前で面白おかしく舞い踊り、それに興味を持たれた天照大御神がそっと岩戸から外を覗いた瞬間、天手力男神が思い切り岩戸を引きあけ、中から天照大御神を引きいだすと二度と岩戸を締められないように、高天原から地上に岩戸を投げ隠した。 それが地上に突き刺さって出来たのが今の戸隠山と言うことである。
   
 もう一つの「戸隠の由来伝説(阿裟縛抄・顕光寺流記)」

 昔、この土地を支配し荒れることもあった九頭一尾の龍大神が、学問行者の七日間祈念により鎮まり、これで成仏できると言って、岩屋戸の中にお隠れになった。このことから戸隠山と呼ばれるようになった。 今でも時に龍神が身震いすることにより、雪崩が起きるのだとも言う。 (「阿裟縛抄」「顕光寺流記」)  

 (今回山桜は、この龍神の身震いかと思われるような、
  轟音と共に雪煙を巻き上げた大きな雪崩を目撃しました。)


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2006年03月09日

円覚寺・佛日庵など

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 鎌倉へ行って来ました。 引率の下見なので足早な行程が多かった
のですが、最初に詣でた円覚寺の中の佛日庵では、ゆったりと臥竜梅
などを眺めながら、お抹茶と豆鳩の形のお菓子を戴くことが出来ました。
(写真は他の方が写っておりますので小さくしてあります。)

 こちらは、円覚寺を建立した北条時宗公・北条家廟所であり、
十一面観音菩薩(鎌倉観音霊場第三十三番)と時宗・貞時・高時の
木像が鎮座されています。

 お堂の右手を少し上がった所には、茶室・烟足軒(えんそくけん/写真右)
があり、時宗公の縁日のうち、4月4日と10月4日にお茶会が開かれると
言うことです。 折角だからゆかりの川端康成「千羽鶴」を読もうかな。

 佛日庵を出て少し上がった右手の岩穴は「白鹿洞」と呼ばれ、落慶式の折
無学祖元(仏光国師)がお経を唱えると法話を聞きにこの穴から一群の
白鹿が表れたとの奇瑞伝承を持ち、このことから円覚寺の山号を「瑞鹿山」と
定めたそうです。
(この日会った方からお経と伺ったように記憶していたのですが、法話が正しい
 ようなので訂正致します。申し訳ありません。)


 穴あらば覗かずにはいられない性分なので、早速穴の中へ・・・。
中の暗闇に段々と目が慣れてくると、何やらのものものの気配が! 
慌てて首を引っ込めて合掌した私でした・・・。(不躾なことで申し訳ありません。)

 境内は「ミツマタ」の花盛りでした。 蕾は綿毛の付いた細長いクリーム色
のものが沢山集まっているのですが、その先が咲き開くと中は鮮やかな黄色で、
まんまるの黄色いカンザシのようになって可愛らしく、すっかり見惚れてばかり
で写真を撮るのを忘れてしまいました。残念! 

 参拝を終え、山門を出て階段を降り線路を越えると白鷺池(びゃくろち)の上
に伸びた枝の上で、本当に一羽の白鷺が羽衣のような美しい羽の繕いを
していました。私にとっての奇瑞・眼福でありました。
ラベル:鎌倉 円覚寺
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2006年02月01日

戸隠の神さま!

 ・・・もう、本当に驚きです!

1月29日、湯島天神の境内・摂社の「戸隠神社」の前にて、

 「また戸隠にキャンプに行けますように…。」

と祈ったことを書きましたが、何と今日、キャンプ研修の企画が変更になり…

 GWに私は戸隠のキャンプ場に行くことになりました!

 戸隠の神さま、ありがとうございます!
道理であの時、ニコニコ迎えて下さった訳です。
こっちへおいでと呼んで下さっていたのですね。


    *     *     *

 去年、鎌倉とんぼさんに、相撲の始祖神は野見宿禰(のみのすくね)、
更にその元を辿れば、天手力男神(あめのたぢからをのかみ)こそ相撲の始祖と
言えるでしょうとのお話を伺った。

 その時、天手力男神をを祀る神社を調べると戸隠神社奥社だったので、以前に
一度詣でてはいるが、次は御由緒を踏まえた上で是非お参りしたいと思っていた。

 更に今回、その野見宿禰が、代々天皇家のご葬儀を司り、埴輪合葬の考案者と
される土師連(はじのむらじ)→土師臣(はじのおみ)→菅原家の始祖であり、
菅原道真公のご先祖様であることも知った。

 不思議な巡り会わせで、どうやらその筋を辿りに出掛けなければならないようだ。
何に導かれているのか、とても楽しみです。


     *     *     *

 戸隠の山は一度見たら忘れられない、激しく切り立って荒々しい一種異様な
様相を呈しているが、記紀などの神話によれば、もう二度と天照大御神
お隠れにならないように、天手力男神がブンと投げ捨てた「天岩戸」
大地にド〜ンと突き立った姿なのだという。
なんとスケールの大きな話ではありませんか!


 戸隠山のお姿 「信州百名山」サイトより
 
http://www.naganoken.jp/mount/hokushin/gogaku/togakusiyama.htm
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2006年01月31日

天満宮の飛梅

 松風さんのブログで早咲きの梅のお話になった時、太宰府天満宮
「飛梅」というがあることを知った。

ところが、今度はm-tamagoさんのブログで、菅原道真公を慕って
大宰府へ飛んでいった元の梅はであったと教えて戴いた。

 飛び立った時は梅で、根付いた先では梅?
これはどうしたことかと、調べてみた。

 道真公はどちらの梅も愛され、本邸を梅殿」別邸を梅殿」
称された。 さてはて、どちらの線もありそうな気配。

 有名なお歌

   東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

の初出は、『拾遺和歌集』だが、梅の色の言及は無い。
(この頃の歌は今伝わるものとは、少し違っている)

   東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな


 その後、承久元年(1219年)作の『北野天神縁起絵巻』に於いて、
を眺める道真公の姿が描かれてより以後、公が別れを
惜しんだ梅は「梅」が定説になったように思われる。

 絵にするのならやはり「梅」が映えるからか…。 
熱き思いに応えて、空を飛ぶような力も「」を連想させるかもしれない。
菅原家邸宅址の菅大臣神社の「飛梅」も梅とのこと。

 では、何故、大宰府天満宮の「飛梅」は「梅」になってしまったのだろう?
実は、大宰府の飛梅も元々は梅だったが、度重なる代替わりや植え替え
を経ていつの間にか梅になってしまったということだった。

 交配を繰り返して作られた植物には、こういうことが生じることはある。
しかし、主を追って真っ赤な心で飛んできた梅の思いも、年月を経て昇華し、
純白になっていった。 そんな風にも思われる。

 無念の涙を流されたかもしれぬ道真公も、祟り神として畏れられた
昔から、学問の神として後の人々に慕われるようになり、今はく清かに
お鎮まりのことと思う。
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2006年01月30日

鷽替えの神事

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湯島天神 木彫りの鷽      ウソ(アトリ科) 「山の自然観察・信州山岳クラブ」より
                  http://www.naganoken.jp/stoc/observe/index.html


「鷽うそ替えの神事」 

 初天神の日、旧年中の凶事、又は、ついた「嘘=鷽」を木彫りの鷽に託して
天満宮の神前に納め、吉事に「取り=鳥」替えて戴くという神事。

 藤原時平の嘘により太宰府に流され、嘘の晴れる日を願いながら亡くなられた
至誠の人・菅原道真公の思いを受け継ぐかのような信仰である。

 鷽という鳥は繁殖期に良く虫を捕食するが、ある日道真公が蜂に襲われた所を
鷽が助けた、天満宮創建の為の材についた虫を鷽が退治したと言う伝えも残る。

 又「」という文字が「」に似ていることから、学問の神に縁があるなど、
道真公・天満宮との関連については、各地の天満宮に諸説がある。

菅原道真公については、下記のサイトが詳しい。

文化デジタルライブラリー「菅原伝授手習鏡」日本芸術文化振興会
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp2/w/000.html


<<追記 2006-02-03>>
 初天神: 菅公のご命日が2月25日であることに因み、お正月明けの
 最初の命日を初天神と呼ぶ。このようにご祭神に縁(ゆかり)の日を縁日と呼ぶ。
 
 鷽(うそ)の名前の由来
 さえずり声が「フィッフゥフゥフゥフィ〜」と口笛の音色に似ており、
 口笛を吹くことを「ウソ吹く」と言うことから。
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2006年01月29日

湯島天満宮(天神)

 この日は旧暦の元日、旧正月の初詣に出掛けた。
先ずは、御徒町の駅から歩いて湯島天神へ…。

 神社を見つけるには、こんもりとした森を目指せば良いとの教えもここでは
役に立たたず、わずかな記憶を頼りにビルの谷間に湯島天神を発見。
折角不忍池を望む高台に作られたお社なのに、こんな風に囲まれてしまっては…。



   「湯島天満宮(湯島天神)」

 御祭神
 天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
  天照大御神が籠もられた天岩戸を引き開けた天下無双の力持ちの神さま。

 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
  言わずと知れた「学問の神様」
 
 雄略天皇の勅命により、御宇二年(458)一月、天之手力雄命を奉斎し創建(伝)。
 後に正平十年(1355)二月、菅原道真公の御偉徳を慕いて勧請し、合わせて奉祀。

 摂社:戸隠神社(地主神、天之手力雄命)
 末社:稲荷神社(笹塚稲荷、宇迦之御魂神)


 受験シーズン真っ只中、予想に違わず大変な人手。
絵馬掛けは、まるで天神様の牛のお腹のように合格祈願絵馬で膨らんでいた。

 拝殿でお参りをし、お守りと鷽替えの神事用の木彫りの鷽を賜り、
境内の梅園を散策。 せめて一輪くらい咲いてはいないかと、くまなく枝々を
見渡したが残雪の中の蕾は固かった。

 ありがたく梅昆布茶を戴いた後、お札受領の喧騒を逃れて奉納の書を拝見。
5歳児の見事な書に釘付け! 学年が上がるにつれ、様々素晴らしい書の数々。
我が身を振り返り情けなく、一層のお稽古を誓う。

 やがて清々しいお社、稲荷神社戸隠神社が並んで笑顔で迎えて下さった。 
稲荷神社に一緒に参拝した子供達と共に祈る。
 「いつも美味しいお食事ありがとうございます。これからもずっとお願いします。」

 戸隠神社の奥社は天之手力雄命をお祭りしているのだから、 
湯島神社の根源はこちらにあると言えるのでは…。 
そして戸隠には我々の聖地とも言えるキャンプ場がある。
 「戸隠の神さまこんにちは。 また、戸隠へキャンプにいけますように」
小さな手がそれぞれに合わさって、可愛い祈りを捧げた。

 ふと見上げた空高く、早咲きの白梅が子供達の掌のように青空に輝いていた。


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2006年01月26日

北野天神社

    物部天神.JPG 物部拝殿.JPG

「北野天神社」 (埼玉県所沢市)
三社合殿:物部天神社 櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命
       国渭地祇(いちき)神社 八千矛(やちほこ)命=大物主命
       天満天神社       菅原道真公
       
摂社・末社:諸神宮(源頼朝により延喜式内総社3132神を勧請)
        室町時代再建(伝)
        (多治比)文子神社 小手指神社 稲荷社 他
        江戸の頃には更に広い境内に25社を数えたと言う。

 社伝によると景行天皇の御代、日本武尊命が東征の折、この地に
饒速日命・八千矛命を祀られたことを初めとし、長徳元年(995)菅原道真五世の孫修成が武藏守として京都の北野天満宮より勧請、以後北野天神と称せられるようになった。

 武藏国の延喜式内社、入間郡五座の内の二座を祀る。
 (延喜式入間郡五座:出雲伊波比(いずもいはひ)神社、
  中氷川神社、広瀬神社、物部天神社、国渭地祇神社)

 武家の信仰厚く、源義家、源頼朝、足利尊氏、前田利家等により、しばしば社殿が造営されたという。

 境内のご由緒樹: 
  日本武尊(倭建命)お手植えの(4代め)「尊桜」
  前田利家お手植えの「大納言の梅」

 往来の激しい車道から数段あがり鳥居をくぐると、鬱蒼とした木立の中で静寂と清浄な空気に包まれた。 長い参道は途中で右に折れ、入口から真っ直ぐに社殿を拝することは出来ない。 未だ白く雪の残る広い境内の奥で、大きな拝殿が木漏れ日を浴びて出迎えてくれた。左右には古色然とした狛犬の笑顔。
「こんにちは。山を二つ越えて遥々歩いて来ましたよ。」

 お参りをすませると、右手から一際存在感のある古社が私を招く。
社名は消えており、傍らには「室町時代に再建」との文字・・・。
屋根こそ、金属で葺き直されているが、木造の部分の様子は只者ならぬ雰囲気だ。 そばで樹木の手入れをしていらした方に御祭神を伺うと
諸神宮。伊勢さんとか日本中の色々・・・」
とのお答え。お忙しそうだったので、それ以上伺う事も出来ず「??」のまま、その他の社を回る。 帰宅後の調べで上記のことが分かった。

 文子(あやこ)天神は、菅原道真公の霊を祀ることを託宣した巫女・多治比文子を祀る神社で養蚕・絹織物の守り神ともされる。

***

 我が家〜中氷川神社〜北野天神と片道約10km程の距離だったが、小山を二つ超えるなど、変化のある道で天気も良く眺望もきいたので、殆ど疲れも感じず心地よい遠出だった。神社にお参りすると体の中まで綺麗に祓い清められて本当に気持ちがいい。 
久々の透明感・・・全身が水晶になったよう。

 こんな時は、思いがけないことが頭にふと浮かんだりする。

「日本武尊(倭建命)と言えば、妃の弟橘媛
 橘と言えば、不老長寿の石長媛。 
 石長媛の弟(妹)と言えば、木花之佐久夜媛
 木花之佐久夜媛と言えば、・・。
 日本武尊は海神を鎮める為に相模の海に身を沈めた弟橘媛を偲び、
 この桜を お手植えされたのかな」と。

 次は是非とも「大納言の梅」そして「尊桜」の花咲く頃に詣でたい。
         
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2006年01月03日

鎌倉古道〜中氷川神社

鎌倉古道端.JPG宅部の氷川神社社務所脇にのびる小道は、
鎌倉古道の名残と伝わり、山向こうの山口領・氷川神社(中氷川神社)へと続いている。
今日はその道を辿って北上し、中氷川神社へまで歩くことにした。片道2km、普通に
歩いて30分とかからない距離だが、一山超えるので上り下りはある。

 途中、踏み切りを越えた先に山口城址という交差点があり、その手前右の一角に
明らかに開発し残されたような小山があり、祠跡?には忌竹(斎竹)が立ち注連縄が
張られていた。一体何が祀られているのか、郷土資料館の開館時に調べてみたい。


 交差点左折後5分、右手の山上に「中氷川神社」がご鎮座。

中氷川和魂宮.JPG 中氷川本殿.JPG 
    中氷川神社 和魂宮           中氷川神社 本殿

御祭神 須佐之男命/古事記・素盞嗚尊/日本書紀・すさのおのみこと
      天照大御神の弟神 祓い・糺すの神 農耕の神
     
      櫛名田比売・くしなだひめ/記)・奇稲田姫命くしいなだひめのみこと/紀)
      八俣大蛇(やまたのおろち)より須佐之男命に救われ妃となられた。
      日本書紀では大己貴命の母神。古事記では大己貴命は6世孫。
      稲田の女神。櫛に化身、八俣大蛇から身を隠された。
    
      大己貴命・おおむなちのみこと 大国主神、他多くの異名を持たれる。

御由緒 創祀は崇神天皇朝。平安時代:延喜式内社  國弊社
      中古:入間・多摩二郡九十二ヶ村の総鎮守、山口城主も崇敬。
      社領四万三斗。維新後:埼玉県社

      神社名は、武蔵國一の宮 大宮(現さいたま市)氷川神社と、
      氷川(現奥多摩町)の奥氷川(上氷川)神社の中間に鎮座することから、
      中氷川神社と呼称された。

合祀  稲荷社、氷川社、八坂社、日枝社、市杵島姫社、浅間社  
     七社大神(湖底に沈んだ旧勝楽寺村鎮座の七社神社)

(拝殿及び正面鳥居は、拝殿にて新年祈祷中であった為、撮影遠慮。)


中氷川神社HP: http://www.geocities.jp/ashishibire/

 
ラベル:神社
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2006年01月02日

氷川神社(宅部)

氷川狛犬う.JPG氷川神ミ宅部.JPG氷川狛犬あ.JPG 
         氷川鳥居.JPG

御祭神 すさのおのみこと(須佐之男命/古事記・素盞嗚尊/日本書紀)
     御名のごとくすさまじきご神威の祓い・糺すの神 農耕の神

創始  江戸時代前より祭られるが年月日は不詳
     山口領氷川神社より分祀、旧宅部(やけべ)村鎮守

合祀  神明社 あまてらすおおみかみ(天照大御神)他、村内に点在した社祠

末社  稲荷大明神 
     うかのみたまのかみ(宇迦之御魂神)/うかのみたまのみこと(倉稲魂命)

社紋  三条(みすじ)の蝙蝠(こうもり):三条の川と三つの村を表す

    
ラベル:神社
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2005年11月03日

国宝・正福寺地蔵堂

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 都内で唯一の国宝建造物・正福寺地蔵堂
建立は、室町時代 応永14年(1407年)。鎌倉の円覚寺舎利殿と同じ造りとのこと。
人々の願いが込められた代々のお地蔵様が納められている。
この程30年に一度屋根の葺き替えが終わり、本日年に一度の公開日を迎えた。

 葺き替えられたばかりの時は、木肌鮮やかな柿葺きが黄金色に輝いていたが、
1ヶ月程の経過でかなり落ち着いた色合いになっていた。
又、以前拝観した時には、千躰地蔵尊との文字通り無数の大小様々なお地蔵様が、
梁や屋根の裏側にびっしりと納められていたのだが、今日はいくら目を凝らして
探してみても上部には一体も見当たらなかった。

 聞けば学術調査に出されているとのこと。
折角の内部公開日に空っぽの地蔵堂では、なんだか拍子抜けだった。葺き替えに
伴い調査に出したものの公開日までに返還が間に合わなかったのだろうか…。

 同じ境内の八坂神社では、毎年この日浦安の舞が奉納される。
私はいつも他の用事があって未だに見ることが出来ないでいる。
来年こそ何とか都合をつけて拝見したいと思う。
ラベル: 神社
posted by 山桜 at 19:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 神社・仏閣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする