ぐるりと割竹垣に囲まれた敷地に、苔と軒シノブの生えた冠木門を潜れば、
「萬事閑居簡素不自由もなし」
静子夫人宛の文の中で藤村が記した言葉です。
普通は日焼けを嫌って板敷きになっていることが多い広縁に畳が敷かれているのが印象的でした。
昭和16年1月13日、島崎藤村は、大磯町で国指定重要無形民俗文化財の左義長、セエノカミサン(道祖神)の火祭りを見てこの地を気に入り、2月25日には借家として借り受け、翌年8月には買い取って終の棲家としたそうです。
広縁や軒の上に見える木の匠の仕事が素敵です。 踏み段や縁石の意匠も細やかで心惹かれます。 元々は大磯の貸別荘であったそうで、この一帯が別荘地「町屋園」と称されていたとのこと。
垣根の向こうのお隣の家も素朴で居ながらきちんとした日本家屋でした。 旧藤村邸を管理されている方のお住まいだとか。 先に訪れた旧林芙美子邸といい、この島崎藤村邸といい、コースの一部としてではなく、再度ゆっくりと佇まいの中に浸りに訪れてみたいものと思います。(つづく)
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2018年03月01日
2018年02月23日
林芙美子記念館
新宿区立 林芙美子記念館も「染の小道」に協賛していて、表門に暖簾がかかり、ギャラリーに染物の作品も展示もされていました。 勿論「染物」の見学に歩いていたのですが、ついつい大好物の日本建築と素敵なお庭(昨日ご紹介のユキワリイチゲなどが咲く)、センスの良い設えなどに目を奪われてしまいました。 他所に気を取られている後ろめたさから写真もサッと撮りしかできませんでしたが、少しだけご紹介します。
お客様の人数によって組み替えられる卓袱台
ギャラリーの中で一番私好みだった作品です。
6畳の部屋が広く見える(使える)のは、神棚や物入れ等を壁の中に予め組み込んでしまっていること、縁側の幅を広く取っていることからとのこと。 成る程です。
2段ベッドは、旅をしたシベリア鉄道の寝台車からヒントを得て作ったという書生さんの部屋
元はお母様の部屋として、後には顔を合わせさせたくないお客様の予備部屋などとして使用とか。
物入れの戸に更紗模様の生地がお洒落!
お台所 総檜の浴槽
高台のこんな素敵な住まいで静かに暮らせたら素敵でしょうねぇ 無い物ねだりばかりせずに、取り入れられるところは取り入れて、主人の残してくれた家を自分なりにもっと整えて生きていくことに致します。
新宿区立 林芙美子記念館HP 詳しくはこちらのHPをご覧ください。
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お客様の人数によって組み替えられる卓袱台
ギャラリーの中で一番私好みだった作品です。
6畳の部屋が広く見える(使える)のは、神棚や物入れ等を壁の中に予め組み込んでしまっていること、縁側の幅を広く取っていることからとのこと。 成る程です。
2段ベッドは、旅をしたシベリア鉄道の寝台車からヒントを得て作ったという書生さんの部屋
元はお母様の部屋として、後には顔を合わせさせたくないお客様の予備部屋などとして使用とか。
物入れの戸に更紗模様の生地がお洒落!
お台所 総檜の浴槽
高台のこんな素敵な住まいで静かに暮らせたら素敵でしょうねぇ 無い物ねだりばかりせずに、取り入れられるところは取り入れて、主人の残してくれた家を自分なりにもっと整えて生きていくことに致します。
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2017年12月17日
ぶらり江戸散歩「遠藤家・井政」将門公復権の要
母方の氏神様である神田明神のすぐ左の宮本公園(茶道江戸千家発祥の地)に、関東大震災後に建てられ戦火にも焼かれずに残った「遠藤家」の木造建築が2008年に移築されています。 今はビルになってしまった神田の祖母の家の平屋の木造の匂いまで思い出し懐かしさが込み上げてきました。
神奈川県鎌倉の材木座でご公儀御用達の材木仲買商だった遠藤家(材木商としての屋号は「井政」で当代で17代目)は、江戸城築城の為の木材の集荷を命じられ神田へ移り住みました。 この時鎌倉の材木職人も一緒に移り住んだことから、その周辺は神田鎌倉町(現 内神田1丁目)と呼ばれていたそうです。
神田鎌倉町は氏子中で最も「将門塚」に近く、遠藤家は代々「将門塚」をお守りし、「将門塚保存会会長」「神田明神氏子総代」などを歴任、明治期に神田明神のご祭神から外されてしまっていた将門公の復権に力を注ぎ、昭和59(1984)年、遂に将門公のご祭神復帰を成し遂げてくださいました。
普段は非公開ですが、お雛祭りなどの行事の期間は見学することが出来ます。
詳しくはこちらのHPをご覧ください。
「井政」
【千代田区指定有形文化財】
この建物は、江戸時代より神田鎌倉町で材木商を営んできた遠藤家が、関東大震災後、昭和初期に建てた店舗併用住宅です。伝統技術を受け継いだ職人たちが、腕によりをかけ、銘木や良材をふんだんに用いて建てています。幸いに戦災で焼失することもなく、都心部の木造住宅としては貴重な存在として残りました。
当初は平屋建てでしたが、昭和29年に一階の一部と二階を増築しました。また、昭和47年に神田から府中市に移築する際に、状態の良い部分を残し、さらに増築を行なっています。
2008年、府中市から神田宮本公園へ再移築するにあたり、府中時代は店として利用せず畳敷きにしていた部屋などを、かつての姿に復元しています。
神田明神の氏子総代であり、生粋の江戸っ子だった遠藤家の亡き先代の意志を受け継ぎ、「都心の子供たちが日本文化に触れる場所にしたい」と、江戸文化・伝統行事の紹介や講座、貸室などに使われています。
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2017年07月12日
「牧野式植物図への道 T」展
森鴎外記念館で牧野先生のお人柄に触れ、もっともっと知りたくなって、この日(7月3日)、東京で一番の暑さを記録した練馬区(大泉学園から徒歩 5分ほど)にある
「牧野記念庭園・記念館」 に出かけました。
余りの暑さに思わず駅前の中華料理屋さんにフラフラと。 塩分不足だったのかいつもなら頼まないようなラーメン+炒飯のランチを注文。 てっきり「半ラーメン+半炒飯ランチ」だと思っていたら、ラーメンは半分ではなく・・・美味しくて全部行けるかな?と思いましたが、やはり無理でした〜ごめんなさい!
地元の方に愛されているお店らしく、あっという間に次々と席が埋まり、上品な年配の奥様が「いつもの」と、お昼からギョーザ+生ビールで寛いでらっしゃるのを見て羨ましく思いましたが、ここでビールを頂いたら、もう炎天下を歩けませんのでぐっと我慢。
さて、満腹になって出発。 駅前の道を真っ直ぐ行くと、間もなく一目であそこだなと分かる牧野記念庭園の森が見えてきました。
「草を褥に 木の根を枕 花を恋して五十年」(遂には九十四年)
「何時(なんどき)までも 生きて仕事にいそしまん
また生まれ来ぬこの世なりせば」
庭園奥の記念館では、下記の巡回展示を公開中。 先ずは暑さ凌ぎに館内へ
【高知県立牧野植物園からの巡回展示】
牧野式植物図への道 T―種の全体像を描くために―
左【シコクチャルメルソウ】1902年「大日本植物志」牧野富太郎
右【サクユリ】1902年「大日本植物志」牧野富太郎
左【ヒメキリンソウ】1889年「日本植物志図篇」牧野富太郎
先生、ンを書き忘れたんですね。人間味が垣間見れて、いいなぁ
右上【植物啓原譯文」宇田川榕菴(ようあん)著 牧野富太郎訳
右下【コシアブラ】1880年 牧野富太郎
(画像は戴いたパンフレットに掲載されていたものです)
なかなか高知県まで行けない私にとって、原画を間近で見られる貴重な機会でした。 かねがね植物の本当の姿を知る為には、隅々まで観察してその姿を掴みとるスケッチが一番と思っていました。 写真を幾らとっても、歩きながら観察した積りになっても、通り一遍の記憶となってしまいます。 長い時間をかけてよくよく観察して描いている内に、何故その形になっているのか、どうしてそういう仕組みになっているのか、植物が自ずと教えてくれるように思えます。 植物と語り合いながら姿を映していくのは至福の時です。
牧野先生愛用の筆記用具も展示(一部復元物)されていて、なんとあの細密な植物画が全部毛筆で描かれていたことに驚きました。 細い部分には、鼠の毛三本で出来た筆も使っていたそうです。
そして今や目のピントがあやふやになってしまっている私からすると、牧野先生の視力の良さは正に驚異です。 会場にいらした係の方に伺うと、
「先生は視力で困られたという話がなくて、とても目が良かったようですよ。 掛けられているのは老眼用のメガネだそうです。」
とのお答えでした。 知りたい見たいという好奇心でもって使っていれば、目も応えてくれるということでしょうか。 私ももっともっと外へ出て、生きた植物や自然をこの目で見続けたいと思います。
書斎や資料室が丸ごと書屋館内に保存されています。
「牧野先生(の等身大パネル)と一緒に写真を撮ろう! 」のコーナー。 どうですこの無邪気で人懐っこい笑顔! 誰もいないのを幸いに何テイクも失敗しつつ、何とか牧野先生に負けずに笑顔でツーショットを撮りました。 いやいや、とても敵いません。 あんな心からの笑顔は今の私には無理でした。 写真はこの点、実に正直です。
書斎の縁に一緒に座ってお話もしました。
「お聞きしたいこと、いっぱいいっぱいあるんです」
と言ったら、嬉しそうに、
「実物と、私が生涯かけて記録し残したものをよ〜く、見て下さいね」
と聞えたような・・・。
嘗てはこの棚にぎっしり詰まっていた資料や標本は首都大学東京牧野標本館、高知の牧野資料館等に寄贈されています。
こちらにお住まいだった頃の邸宅敷地内のジオラマ
ご愛用の採集道具 何処から飛んで来たのかトンボが・・・
冷房の利いた館内でたっぷり展示を楽しんだ後、庭園の観察に出ました。
【イヌホオズキ?】ナス科 【ウバユリ】ユリ科
左【ノダフジ】マメ科
フジには、この野田フジと山フジがあって、巻き方が違います。 それを右巻き左巻きと表現すると、上から見てか下から見てか? とヤヤコシイことになるので、この頃はZ字型巻き、S字型巻き等とも言います。私はそれもピント来ないので、野田フジは「ふ」の字=S字巻き、山フジは「ヤ」の字=Z字巻きと憶えています。 野田フジの蔓の部分が「ふ」の字の真ん中ように左上がり右下がりの形に見えるからです。
右【アンズ/杏】バラ科
梅に近い仲間ですが、樹肌は随分違うのですね。 初めて認識しました。
【スエコザサ/寿恵子笹】イネ科
家守りし 妻の恵みや 我が学び
世の中のあらむかぎりや すゑ子笹 (結綱子)
発見した新種の笹に、自分では好きなこともせず、貧窮しながらも研究を支え続けた奥様の名前をつけています。
【ダイオウショウ(マツ)/大王松】マツ科
【ヒメウツギ/姫空木】アジサイ(前ユキノシタ)科ウツギ属
【ヤブラン】キジカクシ科ヤブラン属
【ムラサキ】ムラサキ科ムラサキ属 これは種子です。
【ヘラノキ/箆の木】アオイ科シナノキ属
分布は近畿以西ですが、牧野邸にある珍しい木であることから「練馬区の木」とされているそうです。
【イイギリ/飯桐】ヤナギ科イイギリ属 別名ナンテンギリ/南天桐
大きな葉に食物をのせたことから飯桐の名が、またこの実が赤く熟して葉が落ちた後も良く目立つ為、南天桐の別名があります。
【オトギリソウ/弟切草】オトギリソウ科
【ヤマシャクヤク/山芍薬】ボタン科 実
【スズラン/鈴蘭】キジカクシ科 青い実 やがて赤く熟します
【アオイスミレ/葵菫】スミレ科 葉が葵に似ていることから
花の少ない季節でも、いろいろ楽しめました。 巡回展は、後期の8月11日〜10月9日もあるので、また訪ねてみたいと思います。
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「牧野記念庭園・記念館」 に出かけました。
余りの暑さに思わず駅前の中華料理屋さんにフラフラと。 塩分不足だったのかいつもなら頼まないようなラーメン+炒飯のランチを注文。 てっきり「半ラーメン+半炒飯ランチ」だと思っていたら、ラーメンは半分ではなく・・・美味しくて全部行けるかな?と思いましたが、やはり無理でした〜ごめんなさい!
地元の方に愛されているお店らしく、あっという間に次々と席が埋まり、上品な年配の奥様が「いつもの」と、お昼からギョーザ+生ビールで寛いでらっしゃるのを見て羨ましく思いましたが、ここでビールを頂いたら、もう炎天下を歩けませんのでぐっと我慢。
さて、満腹になって出発。 駅前の道を真っ直ぐ行くと、間もなく一目であそこだなと分かる牧野記念庭園の森が見えてきました。
「草を褥に 木の根を枕 花を恋して五十年」(遂には九十四年)
「何時(なんどき)までも 生きて仕事にいそしまん
また生まれ来ぬこの世なりせば」
庭園奥の記念館では、下記の巡回展示を公開中。 先ずは暑さ凌ぎに館内へ
【高知県立牧野植物園からの巡回展示】
牧野式植物図への道 T―種の全体像を描くために―
左【シコクチャルメルソウ】1902年「大日本植物志」牧野富太郎
右【サクユリ】1902年「大日本植物志」牧野富太郎
左【ヒメキリンソウ】1889年「日本植物志図篇」牧野富太郎
先生、ンを書き忘れたんですね。人間味が垣間見れて、いいなぁ
右上【植物啓原譯文」宇田川榕菴(ようあん)著 牧野富太郎訳
右下【コシアブラ】1880年 牧野富太郎
(画像は戴いたパンフレットに掲載されていたものです)
なかなか高知県まで行けない私にとって、原画を間近で見られる貴重な機会でした。 かねがね植物の本当の姿を知る為には、隅々まで観察してその姿を掴みとるスケッチが一番と思っていました。 写真を幾らとっても、歩きながら観察した積りになっても、通り一遍の記憶となってしまいます。 長い時間をかけてよくよく観察して描いている内に、何故その形になっているのか、どうしてそういう仕組みになっているのか、植物が自ずと教えてくれるように思えます。 植物と語り合いながら姿を映していくのは至福の時です。
牧野先生愛用の筆記用具も展示(一部復元物)されていて、なんとあの細密な植物画が全部毛筆で描かれていたことに驚きました。 細い部分には、鼠の毛三本で出来た筆も使っていたそうです。
そして今や目のピントがあやふやになってしまっている私からすると、牧野先生の視力の良さは正に驚異です。 会場にいらした係の方に伺うと、
「先生は視力で困られたという話がなくて、とても目が良かったようですよ。 掛けられているのは老眼用のメガネだそうです。」
とのお答えでした。 知りたい見たいという好奇心でもって使っていれば、目も応えてくれるということでしょうか。 私ももっともっと外へ出て、生きた植物や自然をこの目で見続けたいと思います。
書斎や資料室が丸ごと書屋館内に保存されています。
「牧野先生(の等身大パネル)と一緒に写真を撮ろう! 」のコーナー。 どうですこの無邪気で人懐っこい笑顔! 誰もいないのを幸いに何テイクも失敗しつつ、何とか牧野先生に負けずに笑顔でツーショットを撮りました。 いやいや、とても敵いません。 あんな心からの笑顔は今の私には無理でした。 写真はこの点、実に正直です。
書斎の縁に一緒に座ってお話もしました。
「お聞きしたいこと、いっぱいいっぱいあるんです」
と言ったら、嬉しそうに、
「実物と、私が生涯かけて記録し残したものをよ〜く、見て下さいね」
と聞えたような・・・。
嘗てはこの棚にぎっしり詰まっていた資料や標本は首都大学東京牧野標本館、高知の牧野資料館等に寄贈されています。
こちらにお住まいだった頃の邸宅敷地内のジオラマ
ご愛用の採集道具 何処から飛んで来たのかトンボが・・・
冷房の利いた館内でたっぷり展示を楽しんだ後、庭園の観察に出ました。
【イヌホオズキ?】ナス科 【ウバユリ】ユリ科
左【ノダフジ】マメ科
フジには、この野田フジと山フジがあって、巻き方が違います。 それを右巻き左巻きと表現すると、上から見てか下から見てか? とヤヤコシイことになるので、この頃はZ字型巻き、S字型巻き等とも言います。私はそれもピント来ないので、野田フジは「ふ」の字=S字巻き、山フジは「ヤ」の字=Z字巻きと憶えています。 野田フジの蔓の部分が「ふ」の字の真ん中ように左上がり右下がりの形に見えるからです。
右【アンズ/杏】バラ科
梅に近い仲間ですが、樹肌は随分違うのですね。 初めて認識しました。
【スエコザサ/寿恵子笹】イネ科
家守りし 妻の恵みや 我が学び
世の中のあらむかぎりや すゑ子笹 (結綱子)
発見した新種の笹に、自分では好きなこともせず、貧窮しながらも研究を支え続けた奥様の名前をつけています。
【ダイオウショウ(マツ)/大王松】マツ科
【ヒメウツギ/姫空木】アジサイ(前ユキノシタ)科ウツギ属
【ヤブラン】キジカクシ科ヤブラン属
【ムラサキ】ムラサキ科ムラサキ属 これは種子です。
【ヘラノキ/箆の木】アオイ科シナノキ属
分布は近畿以西ですが、牧野邸にある珍しい木であることから「練馬区の木」とされているそうです。
【イイギリ/飯桐】ヤナギ科イイギリ属 別名ナンテンギリ/南天桐
大きな葉に食物をのせたことから飯桐の名が、またこの実が赤く熟して葉が落ちた後も良く目立つ為、南天桐の別名があります。
【オトギリソウ/弟切草】オトギリソウ科
【ヤマシャクヤク/山芍薬】ボタン科 実
【スズラン/鈴蘭】キジカクシ科 青い実 やがて赤く熟します
【アオイスミレ/葵菫】スミレ科 葉が葵に似ていることから
花の少ない季節でも、いろいろ楽しめました。 巡回展は、後期の8月11日〜10月9日もあるので、また訪ねてみたいと思います。
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2017年06月30日
「鴎外の庭に咲く草花ー牧野富太郎の植物図とともに」展
夏越の大祓いの日、暫く行けないでいた持病の経過観察に行き、肥大も悪化もナシでホッと一息。 折角都心に出て来たついでに、同じ地下鉄路線で行ける「森鴎外記念館」まで足を伸ばしました。 この企画展のタイトルを見たら行きたくなって・・・
*既に終わってしまってからのレポで申し訳ないです。
自邸の庭に四季折々に咲く花々を記した「花暦」には、私も同様ですから鴎外さんと「仲間ですね!」と固い握手をしたい気持ちになりました。 牧野先生の植物愛溢れる細密な植物画と共に足跡を辿った展示もさることながら、鴎外と富太郎を語る動画が4本流されていて、もう、知らなかったことだらけで・・・恥ずかしながら森鴎外も牧野富太郎もどういう人柄なのか誤解していたというより、殆ど知らなかったことに愕然としました。
鴎外は夏目漱石に比べると何だか気難しそうで、小説にも手が延びにくかったのですが、これ程までに植物を愛し自分の庭で沢山育てていたこと、小説の中にも沢山の植物を登場させていたこと、そして主人と同じくらいの若さで亡くなったこともあり、ぐっと親しみが湧き今更ながらもっと読んでみたくなりました。
考えてみれば、「森 林太郎」という本名からして、森や林、そこに暮らす植物・生物に興味を持つのは必然ですね。 牧野先生が「植物の精」とすれば、鴎外は「森林の精」かもしれません。 森林の国ドイツへ行ったのも偶然ではないような。
余りにも優秀過ぎお国の為の軍医という仕事に専念せねばならない立場、自分のやりたいことが自由に出来ず苦悩しながら若くして亡くなった鴎外と、自分のやりたいことに思い切り没頭して94歳の人生を全うした牧野富太郎、奇しくも同じ年に生まれた二人が、それぞれ違う道を進みながらも植物と言う接点とそれを通した交流を持っていたことに救われる思いがしました。
牧野先生の植物画は人気で殆ど売り切れており(鴎外記念館でそれらを求めるのは自分的に?ですし)、鴎外の多才さの一片を思い知らされた「東京方眼図」を手に入れました。
今では普通にお世話になっている地図の方眼割りですが、日本では鴎外が最初に取り入れたのだそうです。 「いろは・・・ と 一二三・・・」の割り振りが時代を感じさせます。 タモさんが古地図でぶらぶら出来るのも鴎外のお蔭なんですね。
残念ながら鴎外の愛した庭や東京湾も望めた自邸「観潮楼」などは焼失(後に住んだ人の失火と戦火で)、イチョウと門の敷石と「三人冗語の石」に僅かに面影を遺すのみ。 今は、敷地跡に鴎外への気持ちが籠められた職人技を集めて造られたモダンな森鴎外記念館(陶器二三雄氏設計)が建っています。 最早「モダンな」と言う言葉が既に古い感じがするようになりましたね。
左:焼け残ったイチョウとその奥に見える「三人冗語の石」
鴎外が腰掛け、幸田露伴、斎藤緑雨と共に写った写真が残る
右:門の敷石(団子坂ではなく当時正面玄関のあった藪下通りに側)
軍服姿の森鴎外が出勤前にここで軍馬と写った写真が残る
〔展覧会要旨〕森鴎外記念館HPより
文京区立森鴎外記念館には、『花暦』と題する鴎外の自筆原稿が遺っています。この原稿には、2月から9月までの8カ月間の草花の開花状況が記されています。書かれた年代は確定できていませんが、明治30年頃の観潮楼(鴎外自邸)の庭を観察したものと推定されます。
明治の文豪・森鴎外が草花を観察していたこと、少し意外に思われるかもしれません。鴎外の日記や子どもたちの遺したエッセイからは、草花を好み園芸を楽しむ一面をみることができます。また、鴎外は自身の作品の中にもたくさんの草花を登場させています。その数500種以上、植物専門家でもないひとりの作家が取り上げる数としては、並外れた数といえるでしょう。作品の中の草花は、季節感や自然の美しさを忠実に伝えるものもあれば、鴎外の想いを伝える表現手段として登場するものもあります。草花の健やかな姿に鴎外は心を癒されると同時に、草花への関心が創作活動の契機にもなっていたにちがいありません。
本展では、観潮楼で咲いていた草花と鴎外作品にみられる草花を、鴎外と同じ文久2(1862)年生まれの植物学者・牧野富太郎の植物図とともに紹介します。草花の姿や印象を文字で記録した鴎外と、部分図や解剖図を盛り込み形態や性質を緻密な図で記録した牧野。互いの日記に名前が記されるなど、2人には交流もありました。物事を克明に捉え続けた2人の目を通して、鴎外の〈庭〉に咲く草花をご覧ください。
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*既に終わってしまってからのレポで申し訳ないです。
自邸の庭に四季折々に咲く花々を記した「花暦」には、私も同様ですから鴎外さんと「仲間ですね!」と固い握手をしたい気持ちになりました。 牧野先生の植物愛溢れる細密な植物画と共に足跡を辿った展示もさることながら、鴎外と富太郎を語る動画が4本流されていて、もう、知らなかったことだらけで・・・恥ずかしながら森鴎外も牧野富太郎もどういう人柄なのか誤解していたというより、殆ど知らなかったことに愕然としました。
鴎外は夏目漱石に比べると何だか気難しそうで、小説にも手が延びにくかったのですが、これ程までに植物を愛し自分の庭で沢山育てていたこと、小説の中にも沢山の植物を登場させていたこと、そして主人と同じくらいの若さで亡くなったこともあり、ぐっと親しみが湧き今更ながらもっと読んでみたくなりました。
考えてみれば、「森 林太郎」という本名からして、森や林、そこに暮らす植物・生物に興味を持つのは必然ですね。 牧野先生が「植物の精」とすれば、鴎外は「森林の精」かもしれません。 森林の国ドイツへ行ったのも偶然ではないような。
余りにも優秀過ぎお国の為の軍医という仕事に専念せねばならない立場、自分のやりたいことが自由に出来ず苦悩しながら若くして亡くなった鴎外と、自分のやりたいことに思い切り没頭して94歳の人生を全うした牧野富太郎、奇しくも同じ年に生まれた二人が、それぞれ違う道を進みながらも植物と言う接点とそれを通した交流を持っていたことに救われる思いがしました。
牧野先生の植物画は人気で殆ど売り切れており(鴎外記念館でそれらを求めるのは自分的に?ですし)、鴎外の多才さの一片を思い知らされた「東京方眼図」を手に入れました。
今では普通にお世話になっている地図の方眼割りですが、日本では鴎外が最初に取り入れたのだそうです。 「いろは・・・ と 一二三・・・」の割り振りが時代を感じさせます。 タモさんが古地図でぶらぶら出来るのも鴎外のお蔭なんですね。
残念ながら鴎外の愛した庭や東京湾も望めた自邸「観潮楼」などは焼失(後に住んだ人の失火と戦火で)、イチョウと門の敷石と「三人冗語の石」に僅かに面影を遺すのみ。 今は、敷地跡に鴎外への気持ちが籠められた職人技を集めて造られたモダンな森鴎外記念館(陶器二三雄氏設計)が建っています。 最早「モダンな」と言う言葉が既に古い感じがするようになりましたね。
左:焼け残ったイチョウとその奥に見える「三人冗語の石」
鴎外が腰掛け、幸田露伴、斎藤緑雨と共に写った写真が残る
右:門の敷石(団子坂ではなく当時正面玄関のあった藪下通りに側)
軍服姿の森鴎外が出勤前にここで軍馬と写った写真が残る
〔展覧会要旨〕森鴎外記念館HPより
文京区立森鴎外記念館には、『花暦』と題する鴎外の自筆原稿が遺っています。この原稿には、2月から9月までの8カ月間の草花の開花状況が記されています。書かれた年代は確定できていませんが、明治30年頃の観潮楼(鴎外自邸)の庭を観察したものと推定されます。
明治の文豪・森鴎外が草花を観察していたこと、少し意外に思われるかもしれません。鴎外の日記や子どもたちの遺したエッセイからは、草花を好み園芸を楽しむ一面をみることができます。また、鴎外は自身の作品の中にもたくさんの草花を登場させています。その数500種以上、植物専門家でもないひとりの作家が取り上げる数としては、並外れた数といえるでしょう。作品の中の草花は、季節感や自然の美しさを忠実に伝えるものもあれば、鴎外の想いを伝える表現手段として登場するものもあります。草花の健やかな姿に鴎外は心を癒されると同時に、草花への関心が創作活動の契機にもなっていたにちがいありません。
本展では、観潮楼で咲いていた草花と鴎外作品にみられる草花を、鴎外と同じ文久2(1862)年生まれの植物学者・牧野富太郎の植物図とともに紹介します。草花の姿や印象を文字で記録した鴎外と、部分図や解剖図を盛り込み形態や性質を緻密な図で記録した牧野。互いの日記に名前が記されるなど、2人には交流もありました。物事を克明に捉え続けた2人の目を通して、鴎外の〈庭〉に咲く草花をご覧ください。
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2017年05月16日
緒方洪庵私塾「適塾」
大阪で次は何処へ行こうかとガイドブックを見ていたら、「適塾」の文字に目が留まって…ああ、そういえば主人は、
「幕末に生まれたかった」
「医者になりたかった」
などと言ってました。 どうやら「連れてけ」と言ってるようなので行ってみますか。
緒方洪庵(1810−1863 54歳)
蘭学者・医学者・教育者
「医の世に生活するは人の為なり
おのれがためにあらず」
(扶氏医戒之略1857 翻訳)
天然痘予防の牛痘苗種痘事業開始
適塾を開き、橋本佐内、大村益次郎
福沢諭吉、長與専斎、大島圭介、
高橋凌雲、佐野常民ら多くの人物を
輩出
淀屋橋・北浜界隈のオフィス街の真中に、タイムスリップしたような江戸時代そのままの 建物が残っていました。 商業都市大阪に残る最古級の町屋建築(店舗兼住宅)だそうで、大塩平八郎の乱(1837)、大阪大空襲(1945)からも奇跡的に被害を免れました。
「適塾」国重要文化財 表通りから
ビルの谷間ではありますが、両側に公園緑地ができていて明るく静かな佇まいです。
東側面から
屋根の僅かな丸み、黒塀と漆喰の白、竹の緑が美しいです。
中庭 灯り
書斎 庭
(2階)塾生大部屋
大部屋中央の柱(刀傷?) 急な階段・丁髷はぶつからない?
2階の小窓から 西側の公園には洪庵先生の像が…頭だけ拝めました。
展示物、資料などの撮影は禁止でしたのでご紹介出来ませんが、蘭書の解読に必須の貴重なヅーフ辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ部屋に詰めかけ奪い合って勉強したとのこと。 福沢諭吉は、
「凡そ勉強ということについては、
このうえもしようも無いほど勉強した」
と述懐したという。 この時代の人の勉強への渇望・熱意・密度、そして使命感は想像を超えるし、そういう時代が羨ましくもある。 主人がこの時代に生まれてみたかったという気持ちは、この点とは違うのかな? 激動の時代を生きて見たかったと言ってたけれど、この辺りも聞いて見たかったなぁ
【ダイミョウダケ(大名竹)】適塾 東側の公園に植えられていたもの
見た目の美しさ、そして筍の美味しさがピカイチらしいですが、こんな狭い植栽では美味しい筍は無理ですね。 勿体ない!
「適塾の最後の感想がそれか?」 主人の声がしたような…
「幕末に生まれたかった」
「医者になりたかった」
などと言ってました。 どうやら「連れてけ」と言ってるようなので行ってみますか。
緒方洪庵(1810−1863 54歳)
蘭学者・医学者・教育者
「医の世に生活するは人の為なり
おのれがためにあらず」
(扶氏医戒之略1857 翻訳)
天然痘予防の牛痘苗種痘事業開始
適塾を開き、橋本佐内、大村益次郎
福沢諭吉、長與専斎、大島圭介、
高橋凌雲、佐野常民ら多くの人物を
輩出
淀屋橋・北浜界隈のオフィス街の真中に、タイムスリップしたような江戸時代そのままの 建物が残っていました。 商業都市大阪に残る最古級の町屋建築(店舗兼住宅)だそうで、大塩平八郎の乱(1837)、大阪大空襲(1945)からも奇跡的に被害を免れました。
「適塾」国重要文化財 表通りから
ビルの谷間ではありますが、両側に公園緑地ができていて明るく静かな佇まいです。
東側面から
屋根の僅かな丸み、黒塀と漆喰の白、竹の緑が美しいです。
中庭 灯り
書斎 庭
(2階)塾生大部屋
大部屋中央の柱(刀傷?) 急な階段・丁髷はぶつからない?
2階の小窓から 西側の公園には洪庵先生の像が…頭だけ拝めました。
展示物、資料などの撮影は禁止でしたのでご紹介出来ませんが、蘭書の解読に必須の貴重なヅーフ辞書は適塾にも一冊しかなく、塾生はヅーフ部屋に詰めかけ奪い合って勉強したとのこと。 福沢諭吉は、
「凡そ勉強ということについては、
このうえもしようも無いほど勉強した」
と述懐したという。 この時代の人の勉強への渇望・熱意・密度、そして使命感は想像を超えるし、そういう時代が羨ましくもある。 主人がこの時代に生まれてみたかったという気持ちは、この点とは違うのかな? 激動の時代を生きて見たかったと言ってたけれど、この辺りも聞いて見たかったなぁ
【ダイミョウダケ(大名竹)】適塾 東側の公園に植えられていたもの
見た目の美しさ、そして筍の美味しさがピカイチらしいですが、こんな狭い植栽では美味しい筍は無理ですね。 勿体ない!
「適塾の最後の感想がそれか?」 主人の声がしたような…
2006年09月30日
江戸東京たてもの園
銭湯「子宝の湯」(昭和4年) 田園調布の家「大川邸」(大正14年)
都立・小金井公園のことは、隅から隅まで知っている積りでした。 園内に両国「江戸東京博物館」の分園、「江戸東京たてもの園」が出来たことも、中にある銭湯が宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」の「油屋」のモデルとして注目され、なかなかの人気を博していることも知ってはいました。
しかし慣れ親しんだ「武蔵野郷土館」にちょっとした古い建物が増えただけだろうという程にしか思わず、小金井公園には何度も行っていたのに、これまで入園の機会を逸しておりました。
それが、それが…こんなに面白い所になっていたとは! 私にとっては「ディズニーランドよりずっと面白い!」所でした。
2月に行った上野「下町風俗資料館」も長屋や商店の中に上がれ、当時の暮らしの空間を経験でき、とても楽しく過ごせましたが、こちらはその何倍もの規模で、本物の建物の移築が並んでおり、江戸〜昭和初期の建物を、一部を除いて内部まで堪能することが出来るのです。 ちょっとしたタイムスリップ旅行です。
「江戸東京たてもの園」HP
http://www.tatemonoen.jp/
最初に西ゾーン、大正〜昭和初期のモダン建築を見たのですが、まるで「サツキとメイの家」のような「大川邸」などでは、みんな、
「あれ〜? あれ〜?」
「あ、お便所〜!」
「さ〜て、二階にあがる階段はどこにあるでしょうか?」
「まっくろくろすけ〜出ておいで〜!」
「お父さん、お花屋さんね…」
などなど、すっかりアニメの世界に入り込んでしまいました。
(どの家がそっくりそのまま、という訳ではなく、この家の外観がどことなく似てるとか、あの部屋、この廊下、こっちのお風呂、あっちの階段、あそこの家の屋根裏納戸…が何となく似てるよね〜という感じです。)
まっくろくろすけの住む暗がり わっはっはっと笑いたいお風呂
ヤドリギを模したライト
隅々まで意匠を凝らした二階の小さな和室(この2点は三井邸内)
この西ゾーンで、トトロごっこをしたり、大きなお屋敷の奥様・お嬢様気分に浸ったりで、すっかり午前中を費やし、早くもお昼タイム…
午後一番でお邪魔した茅葺の農家では、囲炉裏に火が赤々と…
「キャンプのにおいがする!」
炎には目が無い私達、時間が無いと言いつつ、ついつい上がり込み、私が最初に神棚にご挨拶すると、皆ごく自然に続いて帽子をとってお辞儀と二拍手でご挨拶。 そこにいらしたボランティアの方々に
「こんなこと初めてですよ…」
と驚かれてしまいました。 私もちょっと驚き、嬉しかったです^^
私が一番見たかった歴史ゾーンの高橋是清邸などを泣く泣く素通り、東ゾーンの下町の町並みゾーンへ…。 でも、アレアレ〜っ??
みんなが直行したのは竹馬遊びと土管の広場! 竹馬に夢中…
「大きなお風呂屋さんとか見ないの〜?」
そう誘ってやっとこさ、銭湯「子宝の湯」だけは入りました。
残念ながら、お湯は入っていませんが、湯船の中には入れるのです。 みんなの声や桶の音が高い天井に響いて懐かしい…
「もう先に出るよ〜」
という若い日の父の声が聞こえてきそうでした。
「帰りたくな〜い!」
「ここに住みた〜い!」
「また来た〜い!」
そう口々に言うみんなに、
「違う季節にまたゆっくり来ようね…」
とにっこり約束しつつ、
「ええっ、こんな所通るの〜っ!?」
と言われるような草の中を突っ切って、キチキチバッタを飛ばし
草の種をくっつけながら、楽しく駅へ向いました〜♪
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2006年02月06日
下町風俗資料館
「銅壺屋の住まい・作業場) 作業場の上の荒神(火の神)棚
パンフレットより
先日、湯島天神と不忍池弁天堂へ詣でた時、最寄の下町風俗資料館を訪ねた。
(台東区立下町風俗資料館HP:http://www.taitocity.net/taito/shitamachi/ )
1階には、古き良き江戸の風情をとどめる大正時代の東京の下町の街並みが、
大店(おおだな)の花緒(鼻緒)問屋から、長屋の中の駄菓子屋、銅壺屋(どうこや)、
そして通路の植木鉢や物干しや辻のお稲荷さんにおみくじ(ちゃんと引ける)まで、
当時実際に使われていたものを用いて忠実に再現されている。
何より嬉しいのは、靴をぬいでそのお店や長屋に上がることが出来ることだ。
箪笥の引き出しの中には、ちゃんとその家の人が身につけたような着物や小物が、
茶箪笥の中には茶器などの揃えが、押入れの中には布団やアイロンや裁縫道具が
納められていて、自由に手にとって眺めることが出来る。
柱時計は今もチックタックと時を刻み、どこからか物売りの声も聞こえてくる。
(階段の踊り場にその声を聞けるコーナーあり) 私にとっては、まるで今はビルに
なってしまった神田の祖母の家にタイムスリップしたようであり、懐かしさが
胸一杯に込み上げてくる。しかし、同行した小学生の子供達も、初めて体験する
空間である筈にも関わらず、
「何だかなつかしいような気持ち」
「あ〜癒される〜」
「こういう所に住んでみたいなぁ」
「静かな中で柱時計の音がいい感じ」
「天井が低くて部屋がちっちゃくて落ち着く」
「ずっとここに居たい…」
などと、そろばんをはじいたり炬燵(こたつ)に入ったり火鉢をかき混ぜたり、
挙句には畳の上でゴロンと横になって寛ぎながら、口々につぶやいた。
「君達に流れる血は、受け継がれた遺伝子は、
ご先祖様たちの記憶を美意識をちゃんと覚えてる!」
…そのことが、無性に嬉しい日だった。
<<追記>>
尚、2階には子供に(大人にも)人気の昔遊び玩具コーナーと通常は、
銭湯の再現(番台に上がれる)、下町・年中行事などに縁の展示があるが、
この日は戦時下の人々の暮らしの特別展が催されていた。