2019年07月08日

明石探訪(6)人麿山月照寺



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 先に書きました「妙見社と本松寺」のように、明治の神仏分離令以前は、「人丸社(柿本神社)」が「人麿山月照寺」の鎮守社として一体の神宮寺でした。  そして、明石城内からこちらに遷座してきたのだそうで、そういえば城内に「人丸塚」がありました! 往時はあの辺りが境内だったのでしょう。

 二手に分かれていたあの時の道の途中で、左手の階段の道を来れば、位置的には手前の月照寺前に先に到着したのですが、右手の坂を下り、更に「亀の水」に寄り道して、ぐるりと回って上って来たので先に「人丸社(柿本神社)」を参拝することになりました。 人生の岐路の選択の結果のようで、何やら面白いことです。

P4300674人麿山月照寺 (440x660).jpg
こちらの寺名の石碑も真新しいですね・・・桃山様式を伝えていたご本堂なども、あの大震災で全壊してしまったそうですが、今は再建されています。

元は真言宗、今は曹洞宗のお寺。
柿本人麻呂さんの念持仏、「海上波切船乗十一面観世音菩薩」を安置し、明石海峡を往来する船の海上安全を守っていてくださいます。 この像は、聖徳太子の御作、持統帝の念持仏だったものを、人麻呂が帝から賜ったものです。
秘仏として、60年に一度の御開帳のみ。

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鐘楼
 東経135度の日本標準時子午線上に立つ県下随一の大梵鐘(約3.1t)で、一撞の余韻は3分半に及び明石海峡に響き渡ります。

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 白砂青松、枯山水の美しいお庭 

P4300679月照寺 八房梅 (440x293).jpg
「八房の梅」「人丸社」にもありましたが、こちらの方が古そうなので親株でしょうか? 本当に一つの花に八つも実が生るのか分かりませんが、少なくとも3〜4の実が一カ所についていて、それが2か所くっついていたら、八房に見えるかもしれません。 これは五房でした、惜しい!

 ご由緒:「赤穂四十七士の一人、間瀬久太夫正明が大石内蔵助良雄と共に当寺に参詣して、素願の成就を祈り、持参の鉢植の梅を手植したのがこの梅である。この梅は一つの花に八つの実がなるので「八房の梅」と名づけられた。

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人丸観世音菩薩 北村西望氏作
 水琴窟の妙なる音に誘われて観音様の前に・・・素直に手を合せ首を垂れ、ひと時の静かな時間を過ごしました。

 続いて人丸社の「盲杖桜」とも関係があるのか、視力の弱い人を救ってくださるという「ふれ愛観音」さまにも触れ合い「視力維持」をお祈りし、ふと見上げると、只者ではない風格の木造りの門、
「ええっ、こんな脇に凄い門!! これは一体??」

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P4300685月照寺 (440x660).jpg
山門(県指定文化財)
 伏見城の薬医門、明石城の切手(きって)門としての二役を果し、明治初年ここに移築。「秀吉建立の歴史を刻む豪壮な風格の山門」とな・・・ただただ圧倒され、見上げてしまいました。 しかし、瓦の紋などはしっかり葵のご紋に替えられてますね。

 秀吉さんもこの辺に触れたかもしれないなぁ…なんて、ちょっと手を重ね、深呼吸してから勿体無いのでまた境内を通って戻りました。

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P4300680月照寺 天文台 (440x293).jpg
月照寺の境内からも天文科学館の塔が聳えて見えます。 子午線上に建っているのですから当然で、今まで敢えてそちらの現代にあまり触れずに来ましたが、次は思い切りそちらにシフトします。

人麿山月照寺公式HP
月照寺には、
 霊元上皇から三十六歌仙式紙(明石市指定文化財)
 桜町天皇から一座短籍(旧国宝・重要文化財)
 後桜町天皇から短籍等
が奉納され、その後も文人墨客の来訪絶えることなく、書画の寄進も多く、それらの大部分は、明石市立文化博物館にて保存されているそうです。 そうそう、その前を通って強い引力?を感じたのですけれど、残念ながら先を急いでしまいました。 次はじっくりお宝を拝見しに参りたいです。

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2019年07月07日

明石探訪(5)人丸山・柿本神社



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さて、手前の「亀の水」でお浄めを済ませ、柿本神社の鳥居をもう一度潜り・・・
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P4300628柿本社鳥居 (207x310).jpg P4300630柿本社鳥居 (207x310).jpg
新しい鳥居の「柿本神社」扁額   旧い扁額と崩れた鳥居
改めてよく見ると、鳥居に修復の跡が・・・震災の痕跡と歴史の足跡を辿りつつ、先程の階段を上り返しました。

P4300638葵のご紋 (207x310).jpg P4300637葵のご紋 (207x310).jpg 
葵のご紋を有する五輪塔
既に記憶が曖昧ですが、何も由緒書きが無かったような…明石城主だった松平家に縁の供養塔でしょうか。

P4300640旧子午線標示柱 トンボの標識 (440x660).jpg
旧「子午線表示柱・トンボの標識」
昭和5(1930)年建立 地球型のカゴの上に、日本の古名「あきつ島」を象徴するトンボ(古名あきつ)を載せたもの。 この「トンボの標識」を目にしたことが、漫画家・松本零士氏が宇宙への思いに目覚めた切欠とのこと。 それだけの力が籠っているのを感じるインパクトでした!

トンボの標識で天を仰ぎ過ぎたのか、やっと柿本神社前に辿りついたのに、
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「柿本神社」門 写真が斜め・・・すみません(。。;)

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「人丸山」扁額
 鳥取懸八橋 穴?井耕作謹書

P4300655柿本神社 狛犬 (207x310).jpg P4300654柿本神社 狛犬 (207x310).jpg
P4300656柿本神社 (440x293).jpg
狛犬さん 由緒書

P4300648柿本神社 (440x293).jpg

P4300649柿本神社 (440x293).jpg

P4300650柿本神社 (440x293).jpg
「柿本神社」拝殿
 何本もはためいていた赤い幟は、翌日の「令和」の始まりを寿ぐもので、きっと大賑わいだったことでしょう。
 「令和」に込められた思いのように、美しい調和の時代となりますように…。 

P4300644 (207x310).jpg P4300646柿本神社 (207x310).jpg
「柿本神社」扁額には、従一位勲一等源朝臣建通?八十九翁謹書
「柿本大明神」の方には、何方のお名前もありませんでした。

P4300647柿本神社 (440x293).jpg
「柿本人麻呂さんのお姿と和歌」

   皇(おおきみ)は神に
     しませば天雲(あまくも)の
    雷(いかづち)の上に
   いほりせるかも

 このような書が少しは読めるようになったのも、ももり先生のお蔭です。 

 (原書を探しました)
 天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
 皇者  神二四座者  天雲之  雷之上尓  廬為流鴨

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上の和歌が刻まれた石碑。 「仮名遣いも散らし書きも、書き手によって色々なのがまた面白い」ということも教えて頂きました。

P4300662柿本神社 八房梅 (207x310).jpg P4300660柿本神社 八房梅 (207x310).jpg
P4300661柿本神社 八房梅 (440x293).jpg
「八房の梅」

 さてさて、この「八房の梅」のご由緒を拝見していた頃でしょうか、一人のご婦人が近付いてらして、
「ご朱印を頂きたいのですが、何方もいらっしゃらないようで…」
と、訪ねられました。 

 平成最後の日、私もご朱印が頂けたらいいなと思っていたので、一緒に社務所の様子などを伺ってみたのですが、いつもは外に下がっているであろう位置に呼び鈴が出ていませんでした。『お出掛けなのでしょうね』と諦めましたが、ご婦人は遠くからわざわざ、ご朱印を頂きにいらしたということで諦めきれぬご様子で、お隣のお休み処の方にもお尋ねに・・・。 心静かに過ごしたかったので、そ〜っとお暇しました。 神職さん方は、翌日の「令和」の始まりに向けて、潔斎されていらしたのでしょうか。

 ご朱印婦人のお供で写真を撮り忘れましたが、「八房の梅」と並び有名なのが、

   ほのぼのと明石の浦の朝霧に
       島がくれゆく舟をしぞ思ふ 

 この人麻呂さんのお歌に因む伝説のある「盲杖桜」の木。

「盲杖桜(もうじょうざくら)」の伝説
 筑紫国から参拝に来たひとりの盲人が、人丸塚に7日間参籠したのち、和歌を一首詠んだ。

   ほのぼのとまこと明石の神ならば 
          一目は見せよ人丸の塚

 すると片目が開いて見えるようになったが、すぐにもとに戻ってしまった。 そこで盲人はさらに7日間参籠して、下の句を変えて詠んだ。

   ほのぼのとまこと明石の神ならば 
         われにも見せよ人丸の塚

 今度は両目が開いて見えるようになり、前回のようにふさがることもなかったので、彼は不要になった桜の木でできた杖を社の前に突き刺して帰ったところ、やがてその杖から根を生やし花が咲いたという。以来「盲杖桜」と呼ばれ、人々に親しまれている・・・とのこと。 次のお参りは、この桜の咲く頃がいいかなぁ

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「亀の碑」
ご祭神の人麻呂さんの略歴が、漢字でびっしりと書かれた石碑を、亀(贔屓)さんが背負っています。 なんでも、 一息で全部読むことが出来たら下の亀さんが動くのだとか・・・。 いやいや、私には途切れ途切れに読むのさえ、とても無理です。

P4300643柿本神社 (440x293).jpg
柿本神社から振り返る景色には、明石市天文科学館の塔が聳えていました。 

 この後、明石大橋を望み、月照寺へ参拝と続くのですが、人丸山を下りて東の鳥居前にて「柿本神社」篇を終わります。

P4300688柿本神社 (440x660).jpg
柿本神社 公式HP
http://www.kakinomoto-jinja.or.jp/
                    
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2019年07月06日

明石探訪(4)人丸山「亀の水」



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 明石駅で降りたのは、明石大橋を近くで見ようと思ってのことでしたが、駅の観光案内所で地図を頂いた後の目的地は、柿本人麻呂さんをお祀りしているであろう柿本神社でした。

 新元号が「令和」となり、和歌に人々の気持ちが向きだしたこの頃、人麻呂さんはさぞかし喜んでおいでだろうなぁ・・・と縁の神社にお参りしたくなったのです。

「人丸山」という地区に入り、左・階段の登り口、右・下り坂の分岐に来ました。
P4300612人麿山月照寺へ (207x310).jpg P4300613人丸社道しるべ (207x310).jpg
「人麿山月照寺」への道標  「人丸社(柿本神社)」への道標

 町名というか山名は「人丸山」、お寺の山号は「人麿山」、このような漢字表記の使い分けは寺社巡りをしていると良くありますね。 月照寺の書体は今風、人丸社の方は昔風、私は古い素直な書の方が好きだなぁ

P4300614人丸社へ (207x310).jpg P4300615大震災被災痕? (207x310).jpg

 どちらに進んでも着くのですが、まぁ、階段を上りたくない気持ちと、大きな木や茂みが呼んでいる気がするので、右の坂道を下りることにしました。 木々の緑を仰ぎながら進みゆくと、またしても大震災の傷跡と思われる様子が次々と現れました。

P4300617大震災被災痕? (440x660).jpg

 ポンペイの遺跡のように、石で組まれていた柵が崩壊したままでした。

P4300616 (207x310).jpg P4300633 (207x310).jpg
 参拝記念に奉納された方々のお名前などが見てとれて面白いので、何処でもよく目で追って読む癖があります。 明石は昔から港もあり淡路も近く、交通の要衝でしたから商人や外国人の参拝も多かったのですね。

P4300635 (207x310).jpg P4300636 (207x310).jpg
 京都の堀〼、大阪の遊郭、どちらにも「堀江」の文字があるのは偶然?・・・遊郭の花魁たちも一緒で華やかな参拝風景だったのでしょうか。

 このまま参道沿いにまっすぐ行けば人丸社なのですけれど、どうもこっちの階段が気になって・・・後でまた上ることになるのですが、やはり下ってみることにしました。
P4300619気になる階段 (440x660).jpg

 P4300631柿本社鳥居 (210x140).jpgP4300623亀の水 (207x310).jpg
見えて来た鳥居を潜ると、左手に「亀の水」の石標

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「亀の水」 ナント、大きな亀さん?が口から勢いよく水を湧き出させていました。 耳もあるし、個人的には「贔屓」かなとも思うのですが、ここではそれも含めての「亀さん」なのでしょう。

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「亀の水・由緒書」
 
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 この「告」は、筆跡は違うでしょうけれど、本当に手水鉢の寄進者の飯塚宣政氏が書いた文言? 「夜間、水汲みながらお喋りすると近所迷惑です」なんて、内容がちょっと現代風に思えますし、あら、「マナー」なんて言葉もありますね、やはり現代の方の代筆ですね。 勝手に名前を使っても飯塚さんなら大丈夫という信頼関係?

 常陸の國にも飯塚姓にも、ご縁があるので、まさかこんなに離れた明石で双方の名に巡り合えるなんて、不思議で嬉しい気持ちでした。

P4300625亀の水 (210x140).jpg P4300626亀の水 (210x140).jpg
 六甲山系の花崗岩(御影石)?のような手水鉢は、緑の苔と水垢に染まって「鳴海織部風」?

P4300627亀の水 (440x660).jpg
 亀さんの正面からみた「遺跡・亀の水」
 ありがたく喉を潤わせて頂き、いよいよ(やっと^^;?)柿本神社へ!
 

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2019年07月05日

明石探訪(3)妙見社



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丘の上の明石神社から少しずつ坂を下って進むと、海風に向かって一心に祈る像・・・尊いお姿に思わず手を合せてしまいました。 そしてそのお隣には、十字架を頂く教会が・・・ お互いを尊重し「和を以て貴し」 或る意味、日本らしい風景と言えるかもしれません。
P4300595大聖寺 (207x310).jpg P4300596上ノ丸教会 (207x310).jpg
世界平和祈願 日蓮大聖人 像   明石上ノ丸教会

どちらも真新しいのは、やはり大震災後に再興されたからなのでしょう。 神戸の街並も新しい建築物が多くて、頭の中の神戸のイメージとは違っていましたが、街が一新される程の・・・こちら在住の知人お話によれば、もう思い出したくない辛く悲しい大災害、地域全体からいつも平和を祈り続ける気持ちが伝わって来ます。

やがて緩やかな曲り角に差し掛かると、濃淡紅色満開のツツジの花に囲まれた心惹かれるお社が見えました。
 
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わぁ〜妙見さまです! 何やら手招きしてくださっているような・・・。 これはとても素通りできません。 お招きに誘われて参拝させていただきました。

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こちらは被害が少なかったのでしょうか・・・それとも丁寧な再建がなされたのでしょうか・・・古い面持ちのままのように見えました。

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力強い扁額の書・・・大光山嗣法第三十五 僧正日陵書
調べると、日蓮宗の大本山大光山本圀寺のお聖人でした。
本圀寺は鎌倉の松ケ谷から遷って来たのですね。

今はこうして後日検索ができるので、知らなかったことばかりのところ、勉強になりました。

神社の鳥居を潜った筈が、先程手を合せた日蓮さん縁のお社だったとは・・・。 こういう時は、何かのご縁に引かれるままに進むが一番。

あれあれ、この風景の既視感は・・・「千と千尋の神隠し」でハクが走り抜ける花園の中に迷い込んだようでした。
P4300601妙見社 (440x660).jpg
P4300607妙見社 (440x293).jpg

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お社の天井には「妙見宮」「妙見大菩薩」沢山の提灯が下がり、扁額には「開運殿」とありました。

ご祭神:妙見尊(開運妙見大菩薩)
    妙見さまは、北辰(北極星と北斗七星)であり、
    天之御中主神と同一とされ、方位・運命守護、
    信奉者の運勢を切り拓いてくださる尊神様。

こちらの妙見尊さまは、島 左近(あの石田三成に禄の半分を以て懇願され、遂に家臣になったと伝わる猛将)の守り本尊「妙見大菩薩玄武像」で、島家の後裔により奉納されたと伝わっています。

P4300609妙見社 (207x310).jpg P4300602妙見社 (210x140).jpg
お招き下された妙見さまとのご縁にありがたく、大切なケロの為に祈願をば・・・。 そして、もはや何処に付けられていたか記憶が定かでない、開運殿の紅葉のご紋とは別のこちらのご紋は一体・・・「十六八重菊」は皇室のご紋、その中に「八重桔梗」もっとよくご由緒など見て置くべきでした。 ネット検索でもこれぞという記載はヒットせず、謎はまたの機会にとっておきましょう。 検索に出てこない謎って、嬉しいなぁ

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ゆっくり妙見さまとお話して、清々しい気持ちで階段をおりていくと、門の真ん中の不思議な石像に目が留まりました。

P4300608妙見社 (440x660).jpg
亀さん? いや重い物を背負っているのですから「霊獣・贔屓」でしょうか? 石鉢だったかな?を背負っていました。 ああ、用途が何だったのか・・・もう覚えていません。 なんでもサッサと記録しておかねばいけませんね。 まぁ、「又おいでなさい」という有難いお沙汰かもしれません。

あ、でもでも、「ニセカラクサケマン」のように、情報をお寄せいただけたら、もうそれはそれで大変嬉しいです! 上記の「十六八重菊・八重桔梗紋」についても同様に、ご存知の方は、どうぞよろしくお願いいたします。

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「妙見社」縁起

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お隣の日蓮宗・本松寺(ほんしょうじ)さん

妙見社は、元はこちらの本松寺が、元禄四(1691)年に船上(ふなげ:船上城の天守閣?は、今は明石城の巽櫓になっていると先日書きました、あの船上が再び登場)より、この地に遷った折に鎮守社として創建され、あの明治の神仏分離令により別れ別れにされたものの、今でも関係は結ばれているそうです。


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2019年07月04日

明石探訪(2)時の道・弥生公園・明石神社



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 明石城址は、もっと奥の方まで広がっているようですが、出かけるのが遅かったのであまり時間に余裕なく、薬研堀のある東側から出て、目当ての方面へと向かいました。 暫く歩くと住宅の前に見慣れぬ植物を発見!

P4300581 ?(207x310).jpg 全体的に花も葉もムラサキケマンに似た風情の柔らかさですが、花の形は「ケマンソウ」や「コマクサ」の方に似ていました。 そして、ナント、つる性なのです。 全く私の頭の中のデータ検索に引っかからない植物でした。 外来種でしょうか? それともこちらでは普通に見られる野草なのでしょうか? 引き続き調べ、名前が分かりましたらご報告しますね。 どなたかご存知でしたらご教示くださると嬉しいです。
(玉井人ひろたさんより
ニセカラクサケマン」とご教示頂きました。ありがとうございます!)

 さて、観光案内所で頂いた地図を片手に探しても、次の目的地「明石神社」が分からず道行く人何人かに、
「明石神社へは、どの道を行ったら良いのでしょうか?」
と尋ねたのですが、そもそも「明石神社」を知らない方ばかり。 地名を頂く有名な神社とばかり思っていたので意外でした。
 
 ふと、上を見ると「時の道」の表示が! 分岐した道の右でも左でもなく真ん中を上るとは、これは盲点でした。 坂の多い町は、平面的な地図では難しいですね。 等高線が必要ですよ・・・(^^;
P4300584時の道 (440x293).jpg

P4300585上ノ丸弥生公園 (207x310).jpg 「上ノ丸弥生公園」 
弥生時代、古墳時代の遺跡が発掘された跡に作られた公園。 

倒壊予防処置?が施されていた。 幾ら補強されていても、この中で休む気持ちにはなれないかなぁ

説明書きには、美味しそうな海産物名が・・・古墳時代の昔から明石では蛸壺でタコを捕ってたのですね。
P4300586上ノ丸弥生公園 (440x293).jpg

P4300589明石神社 (440x293).jpg
「明石神社」鳥居
天和2年(1682)創建の古社と思いきや、鳥居は新しく境内もさっぱりしていて、想像とは全く違いました。 これもあの阪神淡路大震災の被害を受けてのことなのでしょう。

P4300590メダケ赤衣病菌 (207x310).jpg

その鳥居のすぐ脇の竹の棹には、オレンジ色のモヤモヤが沢山付いていました。 サビ病の一種が出ているのだろうと思います。→ さび病菌の一種メダケアカゴロモ病菌の仕業でした。

P4300592明石神社 (440x293).jpg
境内

この右手には、真っ白なコンクリート造の社殿があって、中には明石城下で築城時〜明治維新まで時を告げていた時打ち大太鼓が奉納されてもいるのですが、何となく「不本意である」という雰囲気を感じて写真を撮れませんでした。 第九代明石城主 松平直常が松平家の先祖、徳川家康、松平直良、直明の霊を祀ったのが最初ということなので、東照宮のような所だったのでしょうか。

P4300593明石神社 (440x293).jpg
手水鉢 には 天保十二年の文字が見えて、往時を何とか偲ばせてくれました。

 勝手な想像ですが、宮司さんは、往時のような姿での再建を望まれていらっしゃるのではないでしょうか。 地元の方々のお気持ちもあるでしょうし、資金もかかることでしょうし、余所者が口を出すことではないですね。(つづく)


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2019年07月03日

明石探訪(1)明石城



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 あっという間に2か月も前になってしまい、我ながら目まぐるしい日々に驚きますが、少しでも早く、大切なことを忘れない内に書き留めておきます。

 GWの10連休の前半、ケロの所に遊びに行ってる間、ケロがお仕事中の日があり、独りで知らない町をぶらぶらしに出かけました。 

 それは平成最後の日の4月30日、何処へ行こうか特に決めることも無く駅に向かい、やって来た電車に乗って気になる町でふらりと降りるつもりでした。

P4300553 (210x140).jpg P4300552 (210x140).jpg
「おお、須磨! これがあの、
   淡路島 かよふ千鳥のなく声に 
          幾夜ねざめぬ須磨の関守
 のあの須磨・・・何だか鎌倉の由比ヶ浜にも似てるような・・・。
 向こうに見えるのは淡路島かな?」
などとボーっと海を見ている内に通り過ぎてしまい、やがて大きな橋が見えて来ました。 先日淡路島に行った時に渡った明石大橋? 淡路島に行くときには素通りしてしまったので、この明石で降りてみようかな・・・

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 明石駅を降りると目の前はお濠、その周りに鮮やかな町名入りの幟が沢山はためいていました。 何と今年は「市制百周年」なんだそうです。 そういえば、明石市長さんのニュースは賑やかでしたが、そんなことは知りませんでした。 そんな記念の年に招かれて降りたようで、ちょっと嬉しいな。

「あれれ、天守閣が二つ?」
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左右対称のようで、よく見ると一番上の屋根の妻の向きが違いますね。 お城の事に詳しくないので良く分かりませんが、どんな意味があるのでしょう。

 明石城は船からの大砲の標的にならぬよう天守閣を作らなかったという説もあり、代わりに四隅に櫓を建てたとのこと。日本に12基しか現存しない三重櫓の内の2基なのだそうです。
P4300559 (210x140).jpg P4300558 (207x310).jpg
坤櫓(ひつじさるやぐら)左  巽櫓(たつみやぐら)右

P4300571 (440x660).jpg 
坤(ひつじさる)櫓: 南西に位置。入母屋造で妻は南北。伏見城からの移築。明石城最大の櫓で巽櫓より一回り大きい。明石城の天守閣代わりだった可能性も。

P4300562 (440x660).jpg
巽(たつみ)櫓:南東に位置。入母屋造で妻は東西。船上(ふなげ)城(の天守閣か?)からの移築後消失再建、大震災被災後修復

P4300560 (207x310).jpg P4300561 (207x310).jpg
(宮本)武蔵の庭園というのは何処かとウロウロしたのですが、この辺り・・・? 何となくそれらしきものはこれくらい? 水が濁って滞っている所はどうも苦手なので、そそくさと通り過ぎました。 雲行きも怪しいので、またの機会に探訪することに。

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DSC_0543 (174x310).jpg 

さてさて、藤棚のたわわに溢れ咲く薄紫の花房の下でお昼。 コンビニで買った可愛い彩の細巻の詰め合わせ。 今は軽く食べて置いて、何処かで美味しいものを・・・と目論んでました。 しかし、こんな素敵な特等席に何方もいないのは、このお天気の所為かな。 満開の藤棚の下、独り占めでした。




P4300569 (207x310).jpg P4300570 (207x310).jpg
アベマキの木肌はコルク状  アベマキの葉(葉裏が白い)

P4300572 (207x310).jpg ハゼノキの花

アべマキもハゼノキも西日本に多い植物なので、こちらでは珍しくも無いのでしょう。 枝を拾っている私はオカシナ人に見えたかも・・・まぁ、もう、そういう視線には慣れてますけれどね。







P4300573 (207x310).jpg P4300576 (207x310).jpg
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「白骨松」 
というドキッとするような名札が付いていましたが、独特の樹肌の模様と色から、中国原産のシロマツ(白松・ハクショウとも)思われます。 日本のアカマツやクロマツは二本の針葉が束生していますが、シロマツは通常、三本束生しています。 三本ずつ生えているのがお分かりでしょうか。 何故、こんなおどろおどろしい名前を付けたのかしら。 白松なら、皆さん「へぇ〜」って珍しがって足を止めるでしょうに、この名前では、縁起でもないと足早に通り過ぎてしまうのでは?

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薬研堀
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薬研堀に面した石垣にも藤の蔓が広がって、沢山の花房が下がっていました。

駅で貰ったパンフレットに、とっても気になる神社名を発見したので、地図を頼りにぶらぶら向かいます。(つづく)

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posted by 山桜 at 19:33| Comment(2) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月29日

大鳴門橋遠望〜ポニョが走る海



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神話の聖地、伊弉諾神宮、おのころ島神社を後にして・・・
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 青緑に広がるキャベツ畑の道を抜け、淡路島南の鳴門海峡を間近に臨む「うずの丘」に到着。 

 お目当ては、↓こちら 2013年ご当地バーガー・グランプリ1位!
P4270452淡路島バーガー (210x140).jpg P4270453淡路島バーガー (207x310).jpg
淡路島 オニオン・ビーフ・ハンバーガー
すみません💦美味しそうに撮れなかったので、こちらのサイトで美味しさをご想像ください。
淡路島バーガー
オニオンが先に付く通り、厚切りの玉ねぎカツ・玉ねぎチップ・玉ねぎフォンダン(くたくた煮)が主役。 甘辛いビーフとトマトソースが玉ねぎの味を引き立てています。 その上、オニオンリングのサイドメニューまで頼んでしまったので、もう食べても食べてもまた甘くておいしい、玉ねぎ〜玉ねぎ〜の玉ねぎ三昧でした。

 お腹いっぱいになって外に出ると、 
P4270454大鳴門橋 (440x293).jpg
大鳴門橋、そしてその向こうは憧れの四国ですね〜

P4270462大鳴門橋 (440x293).jpg
 大鳴門橋の両側の海には、渦潮が見えるような・・・
 次にケロの所に来られたら、橋を渡ってあの未踏の四国へ連れて行ってくれるかな?

P4270457 (440x293).jpg
 青い海に浮かぶ小島

P4270456鮭幟 (440x660).jpg
サクラマス幟
 ケロは、
 「こわ〜っ、身が削がれたサーモン?」
 などと言ってましたが、これはサクラマス(ヤマメは同種の陸封型)の婚姻色ではなかろうかと。 確か婚姻色が桜色になるのでサクラマスと呼ばれているのでは? でも、こんなに真っ赤だったかなぁ?? 後で確かめますね〜

 <追記> サクラマスの婚姻色を確かめると、桜色にはなりますが、このように真っ赤ではなくヤマメの桜色の部分が濃くなった位の色合いでした。 それでこの「のぼり」を拡大してよ〜くみると、真ん中にうっすら白っぽい筋が透けて見えるようで、やはり目の良いケロが言うとおり、皮を剥がれたか三枚おろしにされた姿の様です 幾ら身の色が綺麗だからと言って、そのような姿で風に吹かれているなんて、あんまりな気がします。 

 同じ道を戻るのも詰まらないので、西海岸沿いの道を帰ります。
P4270471県道25号沿い海 (440x293).jpg
 「あれっ、またキャベツ畑!?」
 と思う程、キャベツにそっくりな色の海原が目線よりも上に見えて、「崖の上のポニョ」でポニョが荒れる海の波の上を走るシーンを思い出してしまいました。
P4270473県道25号沿い海 (440x293).jpg

P4270468県道25号沿い海 (207x310).jpg P4270465アンモナイト像 (207x310).jpg
 余りにも海が迫ってきて落ち着かないので、車を止めて一休み。 こうして眺めれば、何という事も無い穏やかな海でした。 この辺りで出土したアンモナイトのモニュメント。

 私がなんのかんのと騒いで煩かったか、そろそろ運転に疲れたのか、ここから高速に乗って帰路へ。

P4270474明石海峡大橋 (440x293).jpg
 最初に渡った明石海峡大橋を再び渡って戻ると、六甲山系の山並みが見えて来ました。 

P4270866摩耶山? (207x310).jpg P4270867長峰山? (210x140).jpg
ロープウェイが見えるので、あれは摩耶山かな? 山崩れが見えるのは長峰山かな? 目に留まる、気になるというのはご縁があるということですね。(つづく)
posted by 山桜 at 22:58| Comment(6) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月28日

おのころ島神社へ



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 ちゃんと調べて出掛けていたら、伊弉諾神社に続いて岩上神社にお参りに向かったことでしょうに、残念ながら今回はご縁が無く何も知らず、淡路島のなだらかな山並みに見惚れながらドライブ・・・
<2019-04-27>
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 途中で一盛り5〜6個もあるようなタケノコが100円でビックリしたり、そこで車を留めずに後悔して、途中の産直野菜のお店を見つけ、大きなタケノコ250円? 見事なワケギ100円? そして瑞々しい新玉ねぎ450円? 確かイチゴも・・・(もう半月以上も経って、安かったという記憶だけで、値段はうろ覚えになってしまいました。 写真も撮って無し。)などを車に詰め込み、また出発!

 こんもりした緑の山(墳丘?)と真っ赤な鳥居が見えて来ました。 おのころ島神社に間違いないでしょう。
 P4270423自凝島神社 (440x293).jpg

(つづく)
posted by 山桜 at 22:12| Comment(5) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月27日

淡路島へ初渡り



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 10連休前の25日はハイキング、26日は出発ギリギリまで報告やら後処理やらを片付けて、殆ど着の身着のまま常時ものザックを背負って新幹線に飛び乗り、ケロの所に遊びに行きました。 

 金曜の夜は美味しいお店は何処もいっぱいで、ちょっと残念な(笑)居酒屋さんでしたが、ビールで乾杯! しょっぱいだの何だのと文句を言いつつ、そう言い合える相手がいる嬉しさに杯が進みました。 相手が居ればこんなに喋るのだなぁ・・・としみじみ。 

 翌朝は絶好のドライブ日和、ケロが淡路島へ連れて行ってくれました。 日本中バックパックで歩き回ったのに、淡路島も四国も未踏だったので、初渡りにドキドキ。 初めてっていいものですねぇ

 明石海峡大橋、渡りま〜す! 
P4270372明石海峡大橋 (440x293).jpg
「青い空!」

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「光る海!」

P4270375明石海峡大橋 (440x293).jpg
「おおっ、向こう岸が見えて来た」

P4270377明石海峡大橋 (440x293).jpg
「わぁ、淡路島、大きいね〜!」

P4270381玉ねぎポン酢たこ焼き (440x293).jpg
 青ねぎとオニオンスライス山盛りの「玉ねぎポン酢たこ焼き」@淡路SA です。

 淡路島が玉ねぎの産地とは知っていましたが、これからず〜っと新玉ねぎの甘い香りに追いかけられる道中となりました。
(つづく)
posted by 山桜 at 22:00| Comment(0) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月02日

奥多摩不思議空間(3)湖に浮かぶ橋

                    
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タイムスリップしたような不思議な感覚を抱いたまま湖沿いに歩き続けると、

P8034890 (210x280).jpg P8034891 (210x280).jpg

対岸の赤い橋、湖に消えていく細い岬などに、水底に沈む前の村落の姿の糸口が見える気がしました。

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北向きに見ているのに北が下で湖の位置が実際に見えているのと逆という、頭が捩れそうな不思議な地図。 どうしてこの向きに描く必要があったのか、全く理解出来ません。 「責任者は誰!?」 と言っても仕方ないので、道しるべに従って湖の方へ下ります。 

P8034895 (210x280).jpg P8034896 (210x280).jpg

急な階段を下っていくと、樹林の間から眼下に青い湖が見えて来ましたが、浮橋の袂はぐるっと回った先で結構遠いのですよ・・・。 いろいろ不思議なことばかり。 どんな理由があるのでしょう?

P8034898ドラム缶橋1408 (443x590).jpg

やっと辿りついた通称「ドラム缶橋」は、既にドラム缶で出来た橋ではなくなって久しく、正式名称は「麦山浮橋」といいます。

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水面に浮かぶ橋は、水の上を歩いてみたいという夢を叶えてくれます。 但し、ちょっと安定し過ぎていてスリル感は不足ですが、安全第一ですからしかたありませんね。 それでも橋の上で左右に広がる景色の中に立つと、湖との一体感があって素敵です。 

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P8034903小魚の群れ1413 (443x332).jpg

無数の小魚の群れも見えました!

P8034906 (210x280).jpg P8034907ドラム缶橋 (210x280).jpg

夢の世界から現実に戻る時って寂しいですね。 名残惜しい橋を蹴って陸地に渡り、橋を振り返りつつ浮世への階段を上りました。

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本当にドラム缶を使っていた頃の写真と今の写真。

P8034909麦山浮橋(ドラム缶橋) (443x332).jpg

posted by 山桜 at 21:16| Comment(2) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月23日

奥多摩の不思議空間(2) 夢の残影

                    
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 白日夢を見たような気持ちでまた橋を渡る(橋を渡るという行為自体、また異空間への入口だった訳ですが)と、P8105054 (443x590).jpg
 
 渓谷の集落を水底に沈めた湖は至る所で入り組んだ景観を現し、往時はどのような暮らしがあったのかと思いがめぐります。 ふと何かを感じて振り返れば、

P8105057大寺山の白塔 (443x590).jpg

 あの白い巨塔のレーダーのような部分(実際は日傘を現しているそうです)が山の上から聳え出し、こちらを見下ろしているようでした。 見送ってくれているとありがたい気持ちになるか、監視されているのかとゾクッとするかは、気の持ち様でしょうか。

P8105055サルスベリ (210x280).jpg P8105062ヤクシソウ (207x310).jpg

真夏の花サルスベリと晩秋の花ヤクシソウが、同時に咲いていました。 まるで「見るなの屋敷」のよう。

「えっ? これは何!?」

P81050598ケーブル鉄塔 (443x590).jpg

 唐突に、林業で使っているとも思えない古びたケーブルの鉄塔が目の前に・・・

P81050638ケーブル鉄塔 (443x590).jpg

 それも湖の向こう岸につながっている?? 一体何を運んでいたのでしょう? 実は下見の時には、その正体が分からず、帰宅して調べた所、それは・・・

 ケーブルが続いているその先に向かう、苔むした階段を登ると、何やら緑陰から建物が覗いて見えました。

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通路らしきものが途絶えたので斜面を攀じ登ると、プラットフォームのある駅舎が現れました。

P8105067旧ケーブル三頭山口駅 (443x332).jpg

P8105071旧ケーブル三頭山口駅 (443x332).jpg

なんと、ロープウェイに車両がそのままぶら下がっています。 興奮と驚きでブレブレです。
落ち着いてみれば、どのくらい経過しているものか分からないものの、それ程荒れても壊れてもいないままの姿で、木漏れ日の中に佇むロープウェイ・・・

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明るい日差しの中で見たせいか、嫌な感じや不気味な雰囲気はありませんでした。

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ドアも開いていたので、そ〜っと乗ってみると、

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「みとうさんぐち」の駅名表示板。 ということは、向こう岸に「かわの」という駅も未だあるのでしょうか。(後で聞いた話では、残ってはいますが立ち入り禁止とのこと。 何故、こちらの駅は閉鎖もされず自由に入れるのかが却って不思議に思えます。)

P8105072旧ケーブル三頭山口駅 (210x158).jpg P8105073旧ケーブル三頭山口駅 (210x280).jpg
 
動力部の部屋は、当然真っ暗ですが覗くことは出来ました。

P8105074旧ケーブル三頭山口駅 (210x280).jpg P8105077旧ケーブル三頭山口駅 (210x158).jpg


プラットフォーム側から入ってしまったので、正規の入口に向かって逆に歩いての振り返りになります。( 先を急いでいて、適当にパシャパシャ撮ったので、暗い所の写真がブレていてごめんなさい。)

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改札口からプラットフォームへ降りる階段・・・この辺りで「千と千尋の神隠し」の中のシーンを思い出しました。

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駅舎正面玄関の間

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駅舎正面玄関の外側

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駅舎正面から左手に見える車両

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再び降りて来た階段から振り返れば駅舎も見えていましたが、知らなければ見えないものですから、敢えて立ち入り禁止などのロープを張らない方が目立たないのでしょう。 登山靴でやっと登れるような道ですから、不用意に立ち入らずそっと静かに時の狭間に埋もれさせて置くべきだったかもしれません。 興味と好奇心が勝ってしまい、ごめんなさい。

(奥多摩湖ロープウェイは、湖を横断する夢を乗せて開業したものの、後に橋が架かったために客足が途絶え、持ち主は行方不明のままとのこと。 撤去するにも資金がかかる為、地元の方々も町も対応に苦慮しているのでしょう。)
posted by 山桜 at 23:09| Comment(6) | 旅歩き・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月01日

大磯はいかい8終「鴫立庵」他

 大磯はいかいのコースの中に、日本三大俳諧道場の一つ「鴫立庵」が入っていたとは、なんと奇遇なことでしょう。(あとの2つは、京都の「落柿舎」、滋賀の「無名庵」)
 
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敷地内に建てられた石碑(上左の写真とは別のものでした)にある銘文「著盡湘南清絶地」、中国の「湘南」そのもののように清々しい地であるとの意味から、「湘南発祥の地」ともされています。 

ここ「鴫立沢」の命名は、西行がこの近辺で詠んだとされる、

「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」
                    (新古今和歌集)
によるそうです。

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「照ヶ崎海岸」 キラキラ光る春の海の優しいさざ波にうっとり・・・。 下は神奈川県指定天然記念物「アオバト飛来地」の岩礁です。 アオバトは果実が主食で、栄養分を取り込むために必要なナトリウムを海水から補給しているのではと言われています。

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1912年(大正元年)貿易商の別荘として建てられた国指定登録重要文化財は、「大磯迎賓館」という名前のイタリアンレストランとなっていました。

 このほか、岩崎弥太郎の孫娘澤田美喜さんが、財産税で物納されていた岩崎家大磯別邸を寄付を集め買戻して設立したエリザベス・サンダースホーム(混血戦災孤児養護施設)の下までやってきたものの、時間切れで仰ぎ見るだけとなりました。 駅前の田舎町的雰囲気を保った風情からは計り知れない奥行きを持った大磯、おそるべし! とても一日では周りきれないことを思い知り、再訪を期しつつ帰途につきました。(おわり)


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2017年12月14日

ぶらり江戸散歩「お茶の水」は何処に?

 さて、「お茶の水」のぶらり散歩中に横道にそれ、神田山が二つに分断されたこと、明大キャンパス等のある駿河台が家康に仕えた駿河の旗本衆の住まいだったこと等は分かりましたが、肝心の「お茶の水」の名前の由来ともなった筈の「お茶の水」は一体何処に? どこかに古い絵図でも残っていないかと探してみました。

江戸図屏風 高林寺御茶水 (440x367).jpg
江戸図屏風・右隻第6扇中上(神田、神田川、水道橋、吉祥寺、高林寺御茶水)

 上の図の左下、雲と雲の間に挟まれた神田川の向かって右岸、半円状に塀に囲まれた屋根付きの井戸のようなものが見えますでしょうか? 読み難いですが良く見ると「高林寺御茶水」と書いてあります。 ここが、その「お茶の水」だったのでしょう。
(Ctrlキー+スクロール・アップ等で拡大してみてください)
国立歴史民俗博物館HP「江戸図屏風右隻第6扇中上」より

 おそらくその右が湯島聖堂、その上が明暦の大火で駒込に移転する前の「吉祥寺(きちじょうじ)」です。 吉祥寺と井の頭の「お茶の水」=神田川の源流、そこでも家康や家光が鷹狩の際に水を汲みお茶を楽しみ、家光が湧水を「井の頭」と命名し辛夷の木に刻んだ・・・そんな話も念頭に置くと、益々興味が湧いて参ります。
(武蔵野市の吉祥寺の地名は、明暦の大火で焼け出された吉祥寺門前の住民が移転したことによります。)

 お茶の水駅前の交番横の石碑には、次のような文が刻まれています。

 聖堂の西比井名水にて お茶の水にも めしあげられたり

 神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 
 享保十四年 江戸川拡張の後
 川幅を広げられし時川の中になりて
 今その形もなし (再校 江戸砂子 より)

 慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。 ある時、寺の庭より良い水がわき出るので
将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。 それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺はお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。

 其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。

 お茶の水保勝会 坂内熊治   
 高林寺 田中良彰
 昭和三十二年九月九日


 残念ながら、「御茶ノ水」駅のあるこの地の「御茶の水」は、享保十四年に川幅の拡張と共に神田川の中に消えてしまったのですね。 となると、今も残る井の頭恩賜公園の中の「お茶の水」は貴重ですが、そちらも今は殆ど涸れてポンプで地下水を汲み上げています。 

 ただ、時に大雨の後など池畔の幾つかの湧水が復活し池の水が澄んで底まで見えることがあり、井の頭の池を愛する人々を喜ばせています。 浸透水が増え、湧水面の高さが池の底面より上昇すれば、未だ池への湧水が復活する可能性があると思うと希望を捨てないでいられます。


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2017年12月06日

日本三奇矯「猿橋」

 大月市秀麗富嶽十二景の第6番「扇山」・第7番「百蔵山」からの帰路、「日本三奇矯*1」の一つ、山梨県桂川にかかる「猿橋*2」を見学して参りました。 

 猿橋は、広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも見ることができる古くから庶民にも親しまれてきた名勝です。 長さ31m、幅3.3mの木橋、谷が31mと 深く橋脚がたてられない代わりに谷幅の狭さを生かし、両岸から張り出した四層の「刎木(はねぎ)*3」 によって支えられた「刎橋(はねばし)*3」です。

 伝説では、推古天皇の御世の7世紀に百済から渡って来た「志羅呼(しらこ)*4」という人が、猿が手をつなぎ橋を作って川を渡る様子から思いついた工法により架けられ、それが名前の由来とされていますが、少なくとも十三世紀以前には架けられていたとのことです。

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<2017-12-05撮影> 
 百蔵山側の渡り口。 なまじ工法のことを耳にしていたので、渡るのがちょっと怖いような気がしましたが、揺れもたわみもなくがっしりとした橋でした。 橋の上に並ぶ灯篭は興醒めなように感じたものの、橋脚から上に出ない明りで足元を照らす苦心の策なのでしょう。

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 橋の中程から上流の眺めは、猿が手をつないで渡ったという伝えの通り、両崖が間近に迫る峡谷です。 ふと、何十年も前に訪れた、九州の高千穂峡が頭に浮かびました。

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 同じく下流の眺め。 手前は水道橋でしょうか。 その向こうは国道20号、車も通れる「新・猿橋」?

 反対側に渡り終えてやっとお目当ての「猿橋」の姿が見えました。
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 橋を支える「刎木」たちに雨露から守る屋根を掛けてる様子が、お地蔵様に傘を被せた「傘地蔵」のお話にも重なって昔の人々の優しい気持ちに触れてほっこりしました。

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 更にもみじが降り積もる階段を下りて・・・
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 下から仰ぐと刎橋の見事な構造が間近に見られました。

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 刎木の先端の白く塗られた部分がお猿さんの顔に見え、必死に手をつないで橋を支え合っているようで「お猿たち、頑張って!」と思わず手に力が入りました。

 ちょっと高い台に上がって、残っていた紅葉と橋が入るアングルに挑戦!
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 一体何処に攀じ登っているのかと、同行の方々に呆れられました・・・。
もっと紅葉が鮮やかな頃も綺麗だったでしょうけれど、ちょっと侘びた風情もまた好もしいものです。

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 猿橋駅の階段前には山梨県の由来ともなった「ニホンヤマナシ」の木が植えられていて、よく見れば未だ小さなナシが3つほど残っていました。 看板には、1903年(明治三十六年)、猿橋駅の開業記念として植えられたとあり、既に百年以上もこの地で人々を見守って来たのですね。 それほど古木にも見えず、改めて木の寿命の長さと人間の命の短さを感じてしまいました。 

*1【日本三奇矯】
 いわゆる「日本三奇矯」と呼ばれる橋の「猿橋」以外の二橋は、
 ・山口県岩国川の「錦帯橋」(1673年(延宝1)創建)
 ・富山県黒部川の「愛本橋」(はね橋形式だった時)
 なのですが、愛本橋は架け替えられ奇矯ではなくなり、代りに「木曾の桟(かけはし)」や 徳島県祖谷(いや)「かずら橋」を入れることもあるそうです。 但し、構造的な奇矯度は上の二つには及ばないとか。

*2【猿橋】
 猿橋は、かつては甲州街道に架かる重要な橋であった。 現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線と国道20号で同名の新猿橋がある。 長さ30.9M、幅3.3M 水面からの高さ31M 深い谷間のために橋脚はなく、急峻な両崖から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支木をせり出し橋を支えている。

*3【刎木】【刎橋】
 梃子(てこ)の原理を応用し、長く突き出た軒先の低下を防ぐために軒裏に用いる材。 上方を小屋束(こやづか)に固定し、土居桁(どいげた)や出梁上の桔木枕などを支点として軒先を支える。

 【刎橋】は、岸の岩盤に穴を開けて刎木を斜めに差込み、中空に突き出させる。 その上に同様の刎木を突き出し、下の刎木に支えさせる。 支えを受けた分、上の刎木は下のものより少しだけ長く出す。 これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ね出していく。 これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

*4【志羅呼(しらこ)】
百済からの渡来人とされるが、それ以外の経歴は不詳。 猿橋の伝説では、橋の工事が難航した為、夫婦揃って川に身を投げ人柱となったとされる。

「日本書紀」には、推古二十年(612年)に百済より路子工(みちのこたくみ)という人物が渡来し、庭を作ったり土木工事を行ったりしたとされている。 彼の顔や身体には白斑があったと伝わり、呼び名「志羅呼(しらこ)」や渡来時期から、猿橋の作り手の別称ではないかと推測されている。

 分からない言葉などを調べている時、去年の3月「猿橋」がテレビ番組「美の巨人」で取り上げられていたことを知りました。 奇しくもその日は・・・こうして惹きつけられるのも何かご縁があるのかもしれません。


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2017年05月18日

高槻D「日吉神社」「伊勢寺」

道案内の看板も見て、さあ「伊勢寺」への道は大丈夫と思ったのに、またまた浄土真宗のお寺が並ぶ道に迷い込んだ後、どういう訳か日吉神社に辿り着きました。 

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 神社参拝は未だ控えようと思っているのに、高槻の神様は招いてくださっていらっしゃるのでしょうか。 それならばと畏れながら鳥居を潜り階段を上って行きました。 高い所へ登って方角を掴みなさいとの仰せかもしれない・・・と振り返って来し方を眺めました。

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 お招きに感謝しつつ、やはり拝殿本殿から離れた所から手を合わせ頭を垂れました。

 ここ古曽部の日吉神社は、戦国時代の武将・荒木村重が芥川城を陥落した功績で摂津守に任じられた時、近江滋賀郡の日吉神社から勧請し創建したとのことです。

DVC00880 (210x280).jpg境内からは大きな欅の木越しに高槻の町が見渡せました。 そもそも、森林インストラクター的思考をすれば、「高槻」の「槻」という字は、「欅(ケヤキ)」のことなので、大きな槻の木が聳えている町という意味もあるのかな?

 そう思って、帰宅後に高槻市の歴史を見てみると、

「高槻はいにしえの神社の地にして、その神すなわち月弓神(つきゆみのかみ)と素盞鳴神なり。 ふるくは天月弓社(あまのつきゆみのやしろ)と称し、また高月読社(たかのつきよみのやしろ)と称す。」(原本無く引用のみ残る) 

との記録がありましたこのように元々は「高月」の字を用いていたものを、後に、神社(月弓神=月読神、また素戔嗚神を祀るとありましたので、恐らくは高槻@で尋ねた「野見神社」のこと?)のご神木として高く聳える「欅=槻」から一字を頂いたものとの由来が高槻市のHPに載っていました。

 日吉神社の境内に上がって見渡したので、何となく方角が分かった気がして歩き出し、また道々出会った方々に教えて頂きながら、伊勢さんが宇多天皇御崩御の後、隠棲して草庵を結んでいたとされる所であり、祀られている「伊勢廟堂」のある「伊勢寺(いせじ)」へようやく到着しました。

【伊勢寺】曹洞宗金剛山象王窟伊勢寺 ご本尊 聖観音菩薩
 
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 伊勢姫といえば、百人一首のこの歌が有名です。

 難波潟 みじかき芦の ふしの間も
            逢はでこの世を 過ぐしてよとや 

階段を上ると山門には「窟王象(しょうおうくつ)」の文字

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本堂正面の入口は閉鎖中   可愛らしい石灯籠

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一見恐ろしげな鬼さんのお出迎えにも、お口の中から紅葉の実生が覗いていてホッとします。

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続く階段の手前のお池にはアヤメの花   歩いてきた大阪医科大等の眺め

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「伊勢廟堂」
元は古墳塚であった地に廟堂と顕彰碑等を建ててお祀りしたとのこと。 廟の中には、伊勢姫のお姿を偲ばせるような自然石が祀られていました。 慶安四(1651)年、この亀の背に乗る珍しい顕彰碑を建てたのは、能因法師さんと同じ城主永井直清、顕彰文は儒学者林羅山です。 廟堂は1993年の阪神淡路大震災で損傷を受け、1995年に再建されたとのことでした。

辺りには山桜の木が・・・この地で桜をみて読まれたとされる歌

 見る人も なき山里の さくら花
             ほかの散りなん 後に咲かまし


寺宝として、伊勢姫遺愛の古鏡、古硯、蜀江錦一片を伝えているのだそうですが、公開はされていないようでした。 重要文化財の登録もないのでしょうか。 秘するが花・・・ですね。

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 お参りの帰り、本堂へと続く脇の入口が開いていました。 飛び石と苔むす庭、優しく若葉にそよぐ風に木漏れ日が揺れていました。 日本人に生まれて良かった・・・と思える安らぎのひとときです。

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 飛び石の合間にはコスミレが実を結んでいました。 花の頃もまた可愛らしいことでしょう。 先ほどの閉じられている正面入口から真っ直ぐの本堂への道です。

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「伊勢寺」の扁額の両側に掲げられている言葉に惹きつけられました。 きっと今の私に必要なことを教えてくれているのだと思います。 これを見せる為にこちらへと誘われたのかもしれません。

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 脇入口に戻り、塀の外から目に留まった建物の窓の意匠が「輪違い」になっていて素敵でした。 ここで、「ワチガイソウ」を思い出す自分が我ながら可笑しかったです。

 さて、上宮天満宮や昼神車古墳の方を経由して駅に戻る積りで歩き出すも、やはり優しげな方に出会えば道を確認したくなります。 するとまたしても、
 「いつもの散歩のコースだから、一緒にいってあげるわ」
との有難いお申し出。 こちらへ来てから、何度こうして優しい方々に助けて戴いたことでしょう。 歴史のある町にお住いの方々の心のゆとり、温かさに触れられて嬉しいことでした。 ずっとお話しながら歩いて来たので、お別れの時には、
 「わたしにとっては、神様仏様の化身でした。 
  ありがとうございます〜」
と、思わず拝んで抱き着いてしまいました。
 「なんもなんも、お互い様やもの」
と、穏やかに微笑まれ、有難くてまたも拝みつつお見送り致しました。

 (東京だって、本当は元々住んでいる土地の人は人情に篤く優しいんですよ。 ただ、余りにも他所から来て住んでいる人が多く、道もそう知らないでしょうし時間に追われていることも多いので、冷たいとかよそよそしいとか無関心とか言われてしまうのが悔しいです。)

 初夏の日差しにやられ飲み水も底をつき、もう、天満宮も古墳もナシで駅への近道というのをお願い致しました。 お蔭様で、迷っていたら熱射病になりそうなところを至近ルートで駅に辿り着くことが出来ました。 喉がカラカラ、エネルギーも切れかかっていて、思わず駅の自動販売機でいつもなら絶対に買わない「メロンカルピス」なんて買ってしまい一気に飲み干しました。 美味しかった〜!

 息を吹き返し、JR高槻駅から阪急高槻市駅まで商店街(センター街)をぶらぶら歩いて、山盛りの真竹?の筍が安くて「うわ〜」と思いましたが、まさか担いで帰る訳にも行かず・・・・筍好きな一家だったのに、今年はとうとう筍を茹でることなく春が終わってしまいました。

 頬くずし よろこぶ人の ゆきあとは
             竹の子湯気も 見ずにゆく春
 (山桜)

 伊勢さんと能因さんを慕って歩いた一日に拙い歌で恥ずかしいです。 お目漱ぎに伊勢姫の歌をもう一首

 身の憂きを いはばはしたに 
              なりぬべし 思へば胸の くだけのみする


 伊勢姫の歌は、今頃、十分大人と言える年齢を重ね、恋しい人との哀しい別れを知り、ようやく心に沁みるようになりました。 能因さんが思慕する気持ちが痛い程分かります。 
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高槻C「文塚」「不老水」

 能因法師の吟稿を埋めた塚とされる「文塚」も、

「ええっ、こんな所に? こんな状態で??」

と、思わず絶句して立ち竦み、天を仰ぐようなありようでしたが、落ち着いて考えてみれば、このような状態で放置?されていても、誰も危害を加えもせず荒されもせず、そのままの状態が保存されていることは奇跡的とも思えます。 土地の方々の愛故なのか、はたまた無関心なのか?? 

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 それにしても、いつしか倒れ草に埋もれしていても、なんとも可愛らしいなぁ 旅に遊んだ能因さんが草枕でのんびりお昼寝しているようにも見えてきます。 小さな五輪塔?は、まるでとんがり帽子の小人のようです。

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 そう、遺跡を傷めないように草が刈られていますし、きちんと保全されているのです。 これらの遺跡のありようは、高槻の子供たちに歴史を学ばせ、大切に守る心を育てることが主であり、私のような余所者観光客向けの遺跡ではないのかもしれません。 

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こちらは、能因さんが晩年、主に煎茶に用いたという「不老水」です。 今も枯れることなく・・・とありましたが、この日、清らかな水の気配は残念ながら感じられず、代りに木漏れ日が揺れていました。 出来れば「不老水」飲んで見たかったし、生きていたら飲ませてあげたかったなぁ

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この後、伊勢さん由縁のお寺に向かう途中もまた迷い道の連続で、そうとは知らずに能因さんの旧居「正林庵」跡地にある「少林窟道場」にも迷い込んだのは、能因さんのお引き合わせなのでしょうか。 ありがたいことでした。
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高槻B「古曽部焼窯跡」

散々歩き回った後、この看板に出会いました。 ああ、この地図さえ持っていれば・・・でも、簡単過ぎてこれもあまり役に立たなそう。 

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やはりロクに下調べせずに出掛けるのは無謀だったかなと思いつつ、それだからこそ、見知らぬ人に助けて戴き、道々お話出来る楽しみも生じるのだと自分を励まし、素敵なお屋敷から出ていらした紳士に次の目的地、古曽部焼の窯跡をお尋ねすると、

「古曽部焼の窯跡? 今はもう止めちゃって何もないよ」

とのお答えにガッカリ。 それでも道を教えて頂き、そろそろという所ですれ違った学生さんにも伺うと、

 「さぁ、聞いたことないです」

ぺこりと頭を下げたその場所の植込みの中にめり込んだ石碑がありました。

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登り窯のあった五十嵐家の跡地のようですが、残念ながら紳士のお言葉通り、何も残ってはいないようでした。 古曽部焼きのそもそもの始まりも、先の能因法師の手びねりの焼き物からだったという伝えもあるそうです。 近年、廃業を惜しんむ人々が「新古曽部焼」として高槻市内の別の所で復興しているそうです。

「古曽部焼のこころ」 高槻市HP内 
古曽部焼 高槻市HP内
「くらわんか」の皿 高槻市HP内

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高槻A「伝能因法師墳」

八丁松原の先、JRの陸橋からの眺めを楽しんで、ここでいいのか怪しげな?階段を下り、さぁこれからが暑く長い迷子の道程でした。 大体最初の広い府道沿いに立っていた白くて目立つ道標と同じ形の道標が行く先々にも立っていると思いますよね? それが違うのですよ・・・。 加えて新興住宅が多く、道行く人も他所から引っ越してきた人が多いようで、この人なら絶対知ってるだろうと思った新聞配達の方さえも、

「のういん何?? 聞いたこと無いなぁ」とのお答え。 

 小倉百人一首の中の、

  あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり

でも有名ですし、土地の人なら誰でも知ってらっしゃると思ったのが甘かったようです。
 
 能因法師は、中古三十六歌仙の一人。 平安中期に生まれ若くして作歌を始め、当時の歌壇の第一人者 藤原長能の元で学び(初めて師について歌を学んだ、師伝相承の始まりとされる)つつ、女流歌人・伊勢の作風を慕い、伊勢の住んでいたこの地に居を定めただなんて、26ー7歳で出家した僧侶でありながら何となくトキメキを感じてしまいます。 その上ちょっと変人だったらしく、実際に東国や西国の遠地へ放浪の旅にも出掛けていたのに、

  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 という歌を都で詠んだのは面白くないと、わざわざ暫く人に会わずにいて顔を黒く日焼けさせてから、東北へ修行の旅に出た時に詠んだ歌として披露したと言う逸話が「古今著聞集」に残っています。 

 放浪の旅に出て歌を詠んだの僧侶の始祖であり、西行も芭蕉も能因に憧れて旅に出たとか。

 さて私も、同じような所をぐるぐると放浪ならぬ彷徨っていると、これは迷っているのでは?と気付かれた仏様のような方が近づいて来てくださり、やっと見逃していた道しるべを教えて頂けました。 足元の小さな石の道標が指さす、まさかこんな細い道を入っていくとは・・・

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おそるおそる細道を抜けると車も通れる道に出て、その道を横切りその先のまた一段と狭い道を進むと・・・(道の反対側に設置の道標は見逃しやすく、この細道の入口に道標が無いからダメなんです。 高槻市の方、再考ねがいます。)

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 急に目の前がパッと開けて田圃の中にこんもりとした木に覆われた塚が現れました!

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 土地の人の呼ぶ「能因塚」は、正式には「伝 能因法師 墳」で、あくまでも「能因法師のお墓」と伝えられている盛塚、ということのようです。 但し、「今昔物語」の中で能因法師は「古曽部入道」と呼ばれていることから、この地(高槻市古曽部)に居を構えていたことは確かとのことです。

 塚の前には、後の高槻城主 永井直清が慶安3年(1650)に建立した顕彰碑(碑文は儒学者の林羅山による)や、能因さんのお名前付きの供物台も設けられています。 道端で摘んだ花を手向けて手を合わせ、ここまで引き寄せて下さったご縁に感謝し、暫し能因法師さんとお話をしました。 

「人を慕う、好きになるって幸せなことですよね。」
「そして放浪の旅に出ては、また懐かしい人の居る地へ戻ることも・・・。」

 顕彰碑の表側は傷みが酷くて殆ど読めない状態でしたので、裏側を撮っておきました。

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 ここで、今年初めて蚊に刺されました。 私の血を吸った蚊の子らがこの地で増えるのもまた一興です。

 それにしても暑い、朝お茶を入れて持ってきたペットボトルの残量が心許なくなってきましたよ。
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高槻@「高山右近」「野見神社」「城跡公園」他

 大阪のガイドブックから、余り人が行かなそうで(失礼!)面白い所はないかと探し、百人一首でお馴染みの「伊勢」と「能因法師」のご縁の地とのことにも惹かれ、高槻市に行ってみることにしました。  未知の土地を歩くのは、やってみたかった「ぶらり途中下車の旅」みたいでドキドキします。

 高槻といえば先ずは高山右近、恥ずかしながらそれしか知らなかったので、右近さんに会いに「カトリック高槻教会」へ。 教会内には人のお姿が見えましたので、邪魔をせぬよう教会の外から真っ赤な薔薇越しに右近さんの像を後姿から拝みました。 膝を曲げて祈られている姿でしょうか。

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 続いて「野見神社」へ。 忌明け(神道では服忌は50日)はしましたが、心情的に本殿近くでの参拝は遠慮いたしました。 忌明け後の神社参拝は差支えないとのことですが、それぞれの心持に素直に従えば良いのではと思います。

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9世紀の宇多天皇の御代、社殿を設け牛頭天王=スサノオノミコトをお祀した所、悪疫がたちまち終息。 後10世紀末に高槻城築城の際、高槻城城内守護社となる。 明治始めに野見宿禰命(天皇家の祭祀を司る土師氏の粗。お相撲の神様としても有名)を合祀、名を野見神社と改名。 現在は高槻の鎮守様として崇拝を集める。

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永井神社 藩祖永井直清の霊神をお祀り。 
瓦屋根の隙間から草が生えているのも荒れた感じはせず、どこか親しみやすい雰囲気を感じました。

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永井鉄線(テッセン、センニンソウ/クレマチス属の原種の一つ)は、徳川家光より永井家だけに許された家紋とのこと。 鉄線大好きな私は、その意匠があちこちに見られてにこにこ。

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この一文字三ツ星が正式家紋、桃は厄除けの為?

高槻市立しろあと歴史館 に立ち寄り、なんと今年が「高槻城築城四百年」という記念の年に当たることを知り、何かに導かれて来たようで驚きました。 

 この町の歴史を一通り学び頭を多少使ったので、お腹が空き(お腹が空くと言うことは素晴らしいことです。 あれからずっと食欲もなく食べても砂を噛むように味のしない日々が続いていたことを考えると、私の心も回復の兆しです。)優しく微笑む受付の女性に、
「この近くでお昼を頂けるお薦めのお店はありますか?」
と尋ねると、直ぐ斜め向かい辺りにある商工会議所の中のレストランを紹介してくださいました。 その他にも行きたい場所近くの地図をコピーして下さり、重ね重ねのご親切、ありがとうございました。  

P5184954 (210x140).jpg カフェハウス Jause のHP

Aランチ(パンのメニュー)は売り切れで、Bランチ(ご飯のメニュー)をお願いしました。 ご覧の通りのヘルシーなランチセット、デザートの手作りケーキも美味しかったです。 頭に浮かんでいた商工会議所の食堂のイメージとは違って、大きなガラス窓越しに緑がゆれるお洒落なカフェでした。

 カフェの方に「城跡公園」への道順を尋ねた所、今は工事中で余りお勧めしないとのことでしたが、折角ここまで来たので、初夏の日差しにも負けず行ってみることにしました。

 こちらへきて多く見かけるアキニレの木が大きく枝を広げて強い日差しを遮ってくれ、ありがたく暫し休息。
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DVC00832 (210x280).jpg 城跡公園にも右近さんの像       

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「歴史民俗資料館」         欄間に束ね熨斗模様

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 室内               中庭

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床の間 落掛の木目が美しい     竹材使用

城跡公園を抜けて、次はお寺を幾つかお参りし「八丁松原」へ向かう積りで、方角の検討を付け進むうち、お散歩途中の奥様に出会ったので、
「この道は城跡公園の向こう側の八幡(はちまん)様の道に出られますか?」
と伺うと、
「ああ、私らは「やはたさん」と呼んでるけど、出られますよ」
それで安心して、途中の日陰でメールの返事を打っていたら、先程の奥様がわざわざ戻って来られて、
「迷われてませんか? 私もそちらへ帰りますからご一緒しますよ」
とご親切に仰ってくださり、道々お話しながら歩けて嬉しかったです。 そして八幡様の所に出たら、

「あらら、はちまんって書いてありますわ〜 
間違っとったわ〜 御免なさいね〜」

「いえいえ、どちらも有りだと思います。
 そんな気にしないでください〜
 わざわざ追いかけてご一緒してくださって
本当にありがとうございます。」

二人して握手してぺこぺこ頭下げて可笑しかったです。 こういう人との触れ合いが何よりの旅の思い出になります。 二度と会うことはないかもしれませんが、きっといつの世かにご縁があった方なのでしょうね。 どこか懐かしい気持ちがしましたから・・・

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住宅街に残る古そうな道標を読む・・・傾きを直さない所が好き

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 民俗資料館で気が付いて伺ったのですが、屋根の勾配がふっくらと丸みを帯びていて「むくり屋根」というのだそうです。 何か意味があるのかと尋ねたところ『特別なものではなく、こちらでは普通ですよ』というお返事。 そう言われて気を付けて見ると、町の昔ながらの家々は皆この屋根の形でした。 ちょっとカマクラ見たいですが暖地ですから雪対策ではないでしょうし、雨の水捌けは良さそうですね。 優しい温かな佇まいに感じます。

 幾つかの名のあるお寺を巡る積りでしたが、住宅街には日影が無く流石に初夏の日差しに負けました。 何と言っても今日のメインは能因法師塚と伊勢廟なので、先を急ぎます。 もう少しで八丁松原という交差点の角で素敵な建物をみつけました。 これは絶対名のある人の設計・・・やはりそうでした。

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大阪医科大学別館(資料館) ヴォ―リズ設計 
イスラム様式のアーチやアラベスク装飾などを用いた個性的な意匠と地域の歴史的建築。 平成15年7月1日に高槻市内初の国の有形文化財に登録されています。

塀の隙間から写真を撮っている余所者を怪訝そうに見て通り過ぎる人々の視線に負けず、暫し細やかな装飾など見惚れておりました。 

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八丁松原

 こういうものは大体現代風の民家が迫っていて写真で見る程昔の風情が残っていないものですが、まずまずの面影は偲ばれ、下の解説にあるような風景を想像しながら、そぞろ歩きました。 それにしても暑い・・・。

【八丁松原】高槻市教育委員会設置の看板より 
八丁松原は、高槻城下の京口から西国街道に至る八丁(約900m)の間に続いた松並木で、江戸時代初期の慶安2年(1649)、高槻城主永井直清によって整備されました。 正式には「山崎通(やまざきみち)」と呼ばれた西国街道は、京都と西国を結ぶ重要な交通路であり、八丁松原は京坂間の要衝高槻城とを結ぶ最短の道筋でした。 最盛期には数百本の松が連なり、「小天橋(しょうてんきょう)の如し」と称えられた八丁松原も、明治時代以降は東海道線や新京阪(現・阪急電鉄)の開通、道路の拡幅等によって、松並木の片側を残すだけとなりました。 そして今では、松原公園の僅かな老松が往時の面影を留めているに過ぎません。

(後編へつづく)
 
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2016年01月02日

古民家の宿

お正月、家族で水戸の郊外にある古民家の宿を訪れました。 宿泊するのは元は蔵だった建物。
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美しいナマコ模様が施された厚い壁には窓が無く扉は固く閉ざされ、光は南側から取り込まれるだけです。
高い軒には大きなスズメバチの巣の名残、その下には恐らく左官屋さんが鏝(コテ)で描いた紅白の鶴亀のこて絵。 築90年の土蔵には、腕のいい左官屋さんのお仕事が残されていました。
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(写真・右)こうした茶釜と風炉の組み合わせってどうしても帽子をかぶった人が大きな口を開けて笑っているようにに見えて、こっそりクスリとしてしまいます。

朝、山里の冷え込みで車のフロントグラスには不思議な霜の結晶模様が出来上がっていました。
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