2018年03月01日

大磯はいかい8終「鴫立庵」他

 大磯はいかいのコースの中に、日本三大俳諧道場の一つ「鴫立庵」が入っていたとは、なんと奇遇なことでしょう。(あとの2つは、京都の「落柿舎」、滋賀の「無名庵」)
 
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敷地内に建てられた石碑(上左の写真とは別のものでした)にある銘文「著盡湘南清絶地」、中国の「湘南」そのもののように清々しい地であるとの意味から、「湘南発祥の地」ともされています。 

ここ「鴫立沢」の命名は、西行がこの近辺で詠んだとされる、

「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」
                    (新古今和歌集)
によるそうです。

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「照ヶ崎海岸」 キラキラ光る春の海の優しいさざ波にうっとり・・・。 下は神奈川県指定天然記念物「アオバト飛来地」の岩礁です。 アオバトは果実が主食で、栄養分を取り込むために必要なナトリウムを海水から補給しているのではと言われています。

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1912年(大正元年)貿易商の別荘として建てられた国指定登録重要文化財は、「大磯迎賓館」という名前のイタリアンレストランとなっていました。

 このほか、岩崎弥太郎の孫娘澤田美喜さんが、財産税で物納されていた岩崎家大磯別邸を寄付を集め買戻して設立したエリザベス・サンダースホーム(混血戦災孤児養護施設)の下までやってきたものの、時間切れで仰ぎ見るだけとなりました。 駅前の田舎町的雰囲気を保った風情からは計り知れない奥行きを持った大磯、おそるべし! とても一日では周りきれないことを思い知り、再訪を期しつつ帰途につきました。(おわり)


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posted by 山桜 at 23:59| Comment(2) | 旅・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

ぶらり江戸散歩「お茶の水」は何処に?

 さて、「お茶の水」のぶらり散歩中に横道にそれ、神田山が二つに分断されたこと、明大キャンパス等のある駿河台が家康に仕えた駿河の旗本衆の住まいだったこと等は分かりましたが、肝心の「お茶の水」の名前の由来ともなった筈の「お茶の水」は一体何処に? どこかに古い絵図でも残っていないかと探してみました。

江戸図屏風 高林寺御茶水 (440x367).jpg
江戸図屏風・右隻第6扇中上(神田、神田川、水道橋、吉祥寺、高林寺御茶水)

 上の図の左下、雲と雲の間に挟まれた神田川の向かって右岸、半円状に塀に囲まれた屋根付きの井戸のようなものが見えますでしょうか? 読み難いですが良く見ると「高林寺御茶水」と書いてあります。 ここが、その「お茶の水」だったのでしょう。
(Ctrlキー+スクロール・アップ等で拡大してみてください)
国立歴史民俗博物館HP「江戸図屏風右隻第6扇中上」より

 おそらくその右が湯島聖堂、その上が明暦の大火で駒込に移転する前の「吉祥寺(きちじょうじ)」です。 吉祥寺と井の頭の「お茶の水」=神田川の源流、そこでも家康や家光が鷹狩の際に水を汲みお茶を楽しみ、家光が湧水を「井の頭」と命名し辛夷の木に刻んだ・・・そんな話も念頭に置くと、益々興味が湧いて参ります。
(武蔵野市の吉祥寺の地名は、明暦の大火で焼け出された吉祥寺門前の住民が移転したことによります。)

 お茶の水駅前の交番横の石碑には、次のような文が刻まれています。

 聖堂の西比井名水にて お茶の水にも めしあげられたり

 神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 
 享保十四年 江戸川拡張の後
 川幅を広げられし時川の中になりて
 今その形もなし (再校 江戸砂子 より)

 慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。 ある時、寺の庭より良い水がわき出るので
将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。 それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺はお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。

 其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。

 お茶の水保勝会 坂内熊治   
 高林寺 田中良彰
 昭和三十二年九月九日


 残念ながら、「御茶ノ水」駅のあるこの地の「御茶の水」は、享保十四年に川幅の拡張と共に神田川の中に消えてしまったのですね。 となると、今も残る井の頭恩賜公園の中の「お茶の水」は貴重ですが、そちらも今は殆ど涸れてポンプで地下水を汲み上げています。 

 ただ、時に大雨の後など池畔の幾つかの湧水が復活し池の水が澄んで底まで見えることがあり、井の頭の池を愛する人々を喜ばせています。 浸透水が増え、湧水面の高さが池の底面より上昇すれば、未だ池への湧水が復活する可能性があると思うと希望を捨てないでいられます。


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2017年12月06日

日本三奇矯「猿橋」

 大月市秀麗富嶽十二景の第6番「扇山」・第7番「百蔵山」からの帰路、「日本三奇矯*1」の一つ、山梨県桂川にかかる「猿橋*2」を見学して参りました。 

 猿橋は、広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも見ることができる古くから庶民にも親しまれてきた名勝です。 長さ31m、幅3.3mの木橋、谷が31mと 深く橋脚がたてられない代わりに谷幅の狭さを生かし、両岸から張り出した四層の「刎木(はねぎ)*3」 によって支えられた「刎橋(はねばし)*3」です。

 伝説では、推古天皇の御世の7世紀に百済から渡って来た「志羅呼(しらこ)*4」という人が、猿が手をつなぎ橋を作って川を渡る様子から思いついた工法により架けられ、それが名前の由来とされていますが、少なくとも十三世紀以前には架けられていたとのことです。

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<2017-12-05撮影> 
 百蔵山側の渡り口。 なまじ工法のことを耳にしていたので、渡るのがちょっと怖いような気がしましたが、揺れもたわみもなくがっしりとした橋でした。 橋の上に並ぶ灯篭は興醒めなように感じたものの、橋脚から上に出ない明りで足元を照らす苦心の策なのでしょう。

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 橋の中程から上流の眺めは、猿が手をつないで渡ったという伝えの通り、両崖が間近に迫る峡谷です。 ふと、何十年も前に訪れた、九州の高千穂峡が頭に浮かびました。

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 同じく下流の眺め。 手前は水道橋でしょうか。 その向こうは国道20号、車も通れる「新・猿橋」?

 反対側に渡り終えてやっとお目当ての「猿橋」の姿が見えました。
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 橋を支える「刎木」たちに雨露から守る屋根を掛けてる様子が、お地蔵様に傘を被せた「傘地蔵」のお話にも重なって昔の人々の優しい気持ちに触れてほっこりしました。

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 更にもみじが降り積もる階段を下りて・・・
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 下から仰ぐと刎橋の見事な構造が間近に見られました。

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 刎木の先端の白く塗られた部分がお猿さんの顔に見え、必死に手をつないで橋を支え合っているようで「お猿たち、頑張って!」と思わず手に力が入りました。

 ちょっと高い台に上がって、残っていた紅葉と橋が入るアングルに挑戦!
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 一体何処に攀じ登っているのかと、同行の方々に呆れられました・・・。
もっと紅葉が鮮やかな頃も綺麗だったでしょうけれど、ちょっと侘びた風情もまた好もしいものです。

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 猿橋駅の階段前には山梨県の由来ともなった「ニホンヤマナシ」の木が植えられていて、よく見れば未だ小さなナシが3つほど残っていました。 看板には、1903年(明治三十六年)、猿橋駅の開業記念として植えられたとあり、既に百年以上もこの地で人々を見守って来たのですね。 それほど古木にも見えず、改めて木の寿命の長さと人間の命の短さを感じてしまいました。 

*1【日本三奇矯】
 いわゆる「日本三奇矯」と呼ばれる橋の「猿橋」以外の二橋は、
 ・山口県岩国川の「錦帯橋」(1673年(延宝1)創建)
 ・富山県黒部川の「愛本橋」(はね橋形式だった時)
 なのですが、愛本橋は架け替えられ奇矯ではなくなり、代りに「木曾の桟(かけはし)」や 徳島県祖谷(いや)「かずら橋」を入れることもあるそうです。 但し、構造的な奇矯度は上の二つには及ばないとか。

*2【猿橋】
 猿橋は、かつては甲州街道に架かる重要な橋であった。 現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線と国道20号で同名の新猿橋がある。 長さ30.9M、幅3.3M 水面からの高さ31M 深い谷間のために橋脚はなく、急峻な両崖から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支木をせり出し橋を支えている。

*3【刎木】【刎橋】
 梃子(てこ)の原理を応用し、長く突き出た軒先の低下を防ぐために軒裏に用いる材。 上方を小屋束(こやづか)に固定し、土居桁(どいげた)や出梁上の桔木枕などを支点として軒先を支える。

 【刎橋】は、岸の岩盤に穴を開けて刎木を斜めに差込み、中空に突き出させる。 その上に同様の刎木を突き出し、下の刎木に支えさせる。 支えを受けた分、上の刎木は下のものより少しだけ長く出す。 これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ね出していく。 これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

*4【志羅呼(しらこ)】
百済からの渡来人とされるが、それ以外の経歴は不詳。 猿橋の伝説では、橋の工事が難航した為、夫婦揃って川に身を投げ人柱となったとされる。

「日本書紀」には、推古二十年(612年)に百済より路子工(みちのこたくみ)という人物が渡来し、庭を作ったり土木工事を行ったりしたとされている。 彼の顔や身体には白斑があったと伝わり、呼び名「志羅呼(しらこ)」や渡来時期から、猿橋の作り手の別称ではないかと推測されている。

 分からない言葉などを調べている時、去年の3月「猿橋」がテレビ番組「美の巨人」で取り上げられていたことを知りました。 奇しくもその日は・・・こうして惹きつけられるのも何かご縁があるのかもしれません。


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2017年05月18日

高槻D「日吉神社」「伊勢寺」

道案内の看板も見て、さあ「伊勢寺」への道は大丈夫と思ったのに、またまた浄土真宗のお寺が並ぶ道に迷い込んだ後、どういう訳か日吉神社に辿り着きました。 

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 神社参拝は未だ控えようと思っているのに、高槻の神様は招いてくださっていらっしゃるのでしょうか。それならばと畏れながら鳥居を潜り階段を上って行きました。高い所へ登って方角を掴みなさいとの仰せかもしれない・・・と振り返って来し方を眺めました。

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 お招きに感謝しつつ、やはり拝殿本殿から離れた所から手を合わせ頭を垂れました。

 ここ古曽部の日吉神社は、戦国時代の武将・荒木村重が芥川城を陥落した功績で摂津守に任じられた時、近江滋賀郡の日吉神社から勧請し創建したとのことです。

DVC00880 (210x280).jpg境内からは大きな欅の木越しに高槻の町が見渡せました。そもそも、森林インストラクター的思考をすれば、「高槻」の「槻」という字は、「欅(ケヤキ)」のことなので、大きな槻の木が聳えている町という意味もあるのかな?

 そう思って、帰宅後に高槻市の歴史を見てみると、

「高槻はいにしえの神社の地にして、その神すなわち月弓神(つきゆみのかみ)と素盞鳴神なり。ふるくは天月弓社(あまのつきゆみのやしろ)と称し、また高月読社(たかのつきよみのやしろ)と称す。」(原本無く引用のみ残る) 

との記録がありましたこのように元々は「高月」の字を用いていたものを、後に、神社(月弓神=月読神、また素戔嗚神を祀るとありましたので、恐らくは高槻@で尋ねた「野見神社」のこと?)のご神木として高く聳える「欅=槻」から一字を頂いたものとの由来が高槻市のHPに載っていました。

 日吉神社の境内に上がって見渡したので、何となく方角が分かった気がして歩き出し、また道々出会った方々に教えて頂きながら、伊勢さんが宇多天皇御崩御の後、隠棲して草庵を結んでいたとされる所であり、祀られている「伊勢廟堂」のある「伊勢寺(いせじ)」へようやく到着しました。

【伊勢寺】曹洞宗金剛山象王窟伊勢寺 ご本尊 聖観音菩薩
 
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 伊勢姫といえば、百人一首のこの歌が有名です。

 難波潟 みじかき芦の ふしの間も
           逢はでこの世を 過ぐしてよとや 

階段を上ると山門には「窟王象(しょうおうくつ)」の文字

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本堂正面の入口は閉鎖中   可愛らしい石灯籠

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一見恐ろしげな鬼さんのお出迎えにも、お口の中から紅葉の実生が覗いていてホッとします。

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続く階段の手前のお池にはアヤメの花 歩いてきた大阪医科大等の眺め

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「伊勢廟堂」
元は古墳塚であった地に廟堂と顕彰碑等を建ててお祀りしたとのこと。 廟の中には、伊勢姫のお姿を偲ばせるような自然石が祀られていました。 慶安四(1651)年、この亀の背に乗る珍しい顕彰碑を建てたのは、能因法師さんと同じ城主永井直清、顕彰文は儒学者林羅山です。 廟堂は1993年の阪神淡路大震災で損傷を受け、1995年に再建されたとのことでした。

辺りには山桜の木が・・・この地で桜をみて読まれたとされる歌

 見る人も なき山里の さくら花
            ほかの散りなん 後に咲かまし


寺宝として、伊勢姫遺愛の古鏡、古硯、蜀江錦一片を伝えているのだそうですが、公開はされていないようでした。 重要文化財の登録もないのでしょうか。 秘するが花・・・ですね。

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 お参りの帰り、本堂へと続く脇の入口が開いていました。 飛び石と苔むす庭、優しく若葉にそよぐ風に木漏れ日が揺れていました。 日本人に生まれて良かった・・・と思える安らぎのひとときです。

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 飛び石の合間にはコスミレが実を結んでいました。 花の頃もまた可愛らしいことでしょう。 先ほどの閉じられている正面入口から真っ直ぐの本堂への道です。

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「伊勢寺」の扁額の両側に掲げられている言葉に惹きつけられました。 きっと今の私に必要なことを教えてくれているのだと思います。 これを見せる為にこちらへと誘われたのかもしれません。

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 脇入口に戻り、塀の外から目に留まった建物の窓の意匠が「輪違い」になっていて素敵でした。 ここで、「ワチガイソウ」を思い出す自分が我ながら可笑しかったです。

 さて、上宮天満宮や昼神車古墳の方を経由して駅に戻る積りで歩き出すも、やはり優しげな方に出会えば道を確認したくなります。 するとまたしても、
 「いつもの散歩のコースだから、一緒にいってあげるわ」
との有難いお申し出。 こちらへ来てから、何度こうして優しい方々に助けて戴いたことでしょう。 歴史のある町にお住いの方々の心のゆとり、温かさに触れられて嬉しいことでした。 ずっとお話しながら歩いて来たので、お別れの時には、
 「わたしにとっては、神様仏様の化身でした。 
  ありがとうございます〜」
と、思わず拝んで抱き着いてしまいました。
 「なんもなんも、お互い様やもの」
と、穏やかに微笑まれ、有難くてまたも拝みつつお見送り致しました。

 (東京だって、本当は元々住んでいる土地の人は人情に篤く優しいんですよ。 ただ、余りにも他所から来て住んでいる人が多く、道もそう知らないでしょうし時間に追われていることも多いので、冷たいとかよそよそしいとか無関心とか言われてしまうのが悔しいです。)

 初夏の日差しにやられ飲み水も底をつき、もう、天満宮も古墳もナシで駅への近道というのをお願い致しました。 お蔭様で、迷っていたら熱射病になりそうなところを至近ルートで駅に辿り着くことが出来ました。 喉がカラカラ、エネルギーも切れかかっていて、思わず駅の自動販売機でいつもなら絶対に買わない「メロンカルピス」なんて買ってしまい一気に飲み干しました。 美味しかった〜!

 息を吹き返し、JR高槻駅から阪急高槻市駅まで商店街(センター街)をぶらぶら歩いて、山盛りの真竹?の筍が安くて「うわ〜」と思いましたが、まさか担いで帰る訳にも行かず・・・・筍好きな一家だったのに、今年はとうとう筍を茹でることなく春が終わってしまいました。

 頬くずし よろこぶ人の ゆきあとは
          竹の子湯気も 見ずにゆく春
 (山桜)

 伊勢さんと能因さんを慕って歩いた一日に拙い歌で恥ずかしいです。 お目漱ぎに伊勢姫の歌をもう一首

 身の憂きを いはばはしたに 
         なりぬべし 思へば胸の くだけのみする


 伊勢姫の歌は、今頃、十分大人と言える年齢を重ね、恋しい人との哀しい別れを知り、ようやく心に沁みるようになりました。 能因さんが思慕する気持ちが痛い程分かります。 
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高槻C「文塚」「不老水」

 能因法師の吟稿を埋めた塚とされる「文塚」も、

「ええっ、こんな所に? こんな状態で??」

と、思わず絶句して立ち竦み、天を仰ぐようなありようでしたが、落ち着いて考えてみれば、このような状態で放置?されていても、誰も危害を加えもせず荒されもせず、そのままの状態が保存されていることは奇跡的とも思えます。 土地の方々の愛故なのか、はたまた無関心なのか?? 

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 それにしても、いつしか倒れ草に埋もれしていても、なんとも可愛らしいなぁ 旅に遊んだ能因さんが草枕でのんびりお昼寝しているようにも見えてきます。 小さな五輪塔?は、まるでとんがり帽子の小人のようです。

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 そう、遺跡を傷めないように草が刈られていますし、きちんと保全されているのです。 これらの遺跡のありようは、高槻の子供たちに歴史を学ばせ、大切に守る心を育てることが主であり、私のような余所者観光客向けの遺跡ではないのかもしれません。 

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こちらは、能因さんが晩年、主に煎茶に用いたという「不老水」です。 今も枯れることなく・・・とありましたが、この日、清らかな水の気配は残念ながら感じられず、代りに木漏れ日が揺れていました。 出来れば「不老水」飲んで見たかったし、生きていたら飲ませてあげたかったなぁ

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この後、伊勢さん由縁のお寺に向かう途中もまた迷い道の連続で、そうとは知らずに能因さんの旧居「正林庵」跡地にある「少林窟道場」にも迷い込んだのは、能因さんのお引き合わせなのでしょうか。 ありがたいことでした。
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高槻B「古曽部焼窯跡」

散々歩き回った後、この看板に出会いました。 ああ、この地図さえ持っていれば・・・でも、簡単過ぎてこれもあまり役に立たなそう。 

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やはりロクに下調べせずに出掛けるのは無謀だったかなと思いつつ、それだからこそ、見知らぬ人に助けて戴き、道々お話出来る楽しみも生じるのだと自分を励まし、素敵なお屋敷から出ていらした紳士に次の目的地、古曽部焼の窯跡をお尋ねすると、

「古曽部焼の窯跡? 今はもう止めちゃって何もないよ」

とのお答えにガッカリ。 それでも道を教えて頂き、そろそろという所ですれ違った学生さんにも伺うと、

 「さぁ、聞いたことないです」

ぺこりと頭を下げたその場所の植込みの中にめり込んだ石碑がありました。

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登り窯のあった五十嵐家の跡地のようですが、残念ながら紳士のお言葉通り、何も残ってはいないようでした。 古曽部焼きのそもそもの始まりも、先の能因法師の手びねりの焼き物からだったという伝えもあるそうです。 近年、廃業を惜しんむ人々が「新古曽部焼」として高槻市内の別の所で復興しているそうです。

「古曽部焼のこころ」 高槻市HP内 
古曽部焼 高槻市HP内
「くらわんか」の皿 高槻市HP内

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高槻A「伝能因法師墳」

八丁松原の先、JRの陸橋からの眺めを楽しんで、ここでいいのか怪しげな?階段を下り、さぁこれからが暑く長い迷子の道程でした。 大体最初の広い府道沿いに立っていた白くて目立つ道標と同じ形の道標が行く先々にも立っていると思いますよね? それが違うのですよ・・・。 加えて新興住宅が多く、道行く人も他所から引っ越してきた人が多いようで、この人なら絶対知ってるだろうと思った新聞配達の方さえも、

「のういん何?? 聞いたこと無いなぁ」とのお答え。 

 小倉百人一首の中の、

  あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり

でも有名ですし、土地の人なら誰でも知ってらっしゃると思ったのが甘かったようです。
 
 能因法師は、中古三十六歌仙の一人。 平安中期に生まれ若くして作歌を始め、当時の歌壇の第一人者 藤原長能の元で学び(初めて師について歌を学んだ、師伝相承の始まりとされる)つつ、女流歌人・伊勢の作風を慕い、伊勢の住んでいたこの地に居を定めただなんて、26ー7歳で出家した僧侶でありながら何となくトキメキを感じてしまいます。 その上ちょっと変人だったらしく、実際に東国や西国の遠地へ放浪の旅にも出掛けていたのに、

  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 という歌を都で詠んだのは面白くないと、わざわざ暫く人に会わずにいて顔を黒く日焼けさせてから、東北へ修行の旅に出た時に詠んだ歌として披露したと言う逸話が「古今著聞集」に残っています。 

 放浪の旅に出て歌を詠んだの僧侶の始祖であり、西行も芭蕉も能因に憧れて旅に出たとか。

 さて私も、同じような所をぐるぐると放浪ならぬ彷徨っていると、これは迷っているのでは?と気付かれた仏様のような方が近づいて来てくださり、やっと見逃していた道しるべを教えて頂けました。 足元の小さな石の道標が指さす、まさかこんな細い道を入っていくとは・・・

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おそるおそる細道を抜けると車も通れる道に出て、その道を横切りその先のまた一段と狭い道を進むと・・・(道の反対側に設置の道標は見逃しやすく、この細道の入口に道標が無いからダメなんです。 高槻市の方、再考ねがいます。)

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 急に目の前がパッと開けて田圃の中にこんもりとした木に覆われた塚が現れました!

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 土地の人の呼ぶ「能因塚」は、正式には「伝 能因法師 墳」で、あくまでも「能因法師のお墓」と伝えられている盛塚、ということのようです。 但し、「今昔物語」の中で能因法師は「古曽部入道」と呼ばれていることから、この地(高槻市古曽部)に居を構えていたことは確かとのことです。

 塚の前には、後の高槻城主 永井直清が慶安3年(1650)に建立した顕彰碑(碑文は儒学者の林羅山による)や、能因さんのお名前付きの供物台も設けられています。 道端で摘んだ花を手向けて手を合わせ、ここまで引き寄せて下さったご縁に感謝し、暫し能因法師さんとお話をしました。 

「人を慕う、好きになるって幸せなことですよね。」
「そして放浪の旅に出ては、また懐かしい人の居る地へ戻ることも・・・。」

 顕彰碑の表側は傷みが酷くて殆ど読めない状態でしたので、裏側を撮っておきました。

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 ここで、今年初めて蚊に刺されました。 私の血を吸った蚊の子らがこの地で増えるのもまた一興です。

 それにしても暑い、朝お茶を入れて持ってきたペットボトルの残量が心許なくなってきましたよ。
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高槻@「高山右近」「野見神社」「城跡公園」他

 大阪のガイドブックから、余り人が行かなそうで(失礼!)面白い所はないかと探し、百人一首でお馴染みの「伊勢」と「能因法師」のご縁の地とのことにも惹かれ、高槻市に行ってみることにしました。  未知の土地を歩くのは、やってみたかった「ぶらり途中下車の旅」みたいでドキドキします。

 高槻といえば先ずは高山右近、恥ずかしながらそれしか知らなかったので、右近さんに会いに「カトリック高槻教会」へ。 教会内には人のお姿が見えましたので、邪魔をせぬよう教会の外から真っ赤な薔薇越しに右近さんの像を後姿から拝みました。 膝を曲げて祈られている姿でしょうか。

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 続いて「野見神社」へ。 忌明け(神道では服忌は50日)はしましたが、心情的に本殿近くでの参拝は遠慮いたしました。 忌明け後の神社参拝は差支えないとのことですが、それぞれの心持に素直に従えば良いのではと思います。

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9世紀の宇多天皇の御代、社殿を設け牛頭天王=スサノオノミコトをお祀した所、悪疫がたちまち終息。 後10世紀末に高槻城築城の際、高槻城城内守護社となる。 明治始めに野見宿禰命(天皇家の祭祀を司る土師氏の粗。お相撲の神様としても有名)を合祀、名を野見神社と改名。 現在は高槻の鎮守様として崇拝を集める。

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永井神社 藩祖永井直清の霊神をお祀り。 
瓦屋根の隙間から草が生えているのも荒れた感じはせず、どこか親しみやすい雰囲気を感じました。

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永井鉄線(テッセン、センニンソウ/クレマチス属の原種の一つ)は、徳川家光より永井家だけに許された家紋とのこと。 鉄線大好きな私は、その意匠があちこちに見られてにこにこ。

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この一文字三ツ星が正式家紋、桃は厄除けの為?

高槻市立しろあと歴史館 に立ち寄り、なんと今年が「高槻城築城四百年」という記念の年に当たることを知り、何かに導かれて来たようで驚きました。 

 この町の歴史を一通り学び頭を多少使ったので、お腹が空き(お腹が空くと言うことは素晴らしいことです。 あれからずっと食欲もなく食べても砂を噛むように味のしない日々が続いていたことを考えると、私の心も回復の兆しです。)優しく微笑む受付の女性に、
「この近くでお昼を頂けるお薦めのお店はありますか?」
と尋ねると、直ぐ斜め向かい辺りにある商工会議所の中のレストランを紹介してくださいました。 その他にも行きたい場所近くの地図をコピーして下さり、重ね重ねのご親切、ありがとうございました。  

P5184954 (210x140).jpg カフェハウス Jause のHP

Aランチ(パンのメニュー)は売り切れで、Bランチ(ご飯のメニュー)をお願いしました。 ご覧の通りのヘルシーなランチセット、デザートの手作りケーキも美味しかったです。 頭に浮かんでいた商工会議所の食堂のイメージとは違って、大きなガラス窓越しに緑がゆれるお洒落なカフェでした。

 カフェの方に「城跡公園」への道順を尋ねた所、今は工事中で余りお勧めしないとのことでしたが、折角ここまで来たので、初夏の日差しにも負けず行ってみることにしました。

 こちらへきて多く見かけるアキニレの木が大きく枝を広げて強い日差しを遮ってくれ、ありがたく暫し休息。
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DVC00832 (210x280).jpg 城跡公園にも右近さんの像       

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「歴史民俗資料館」         欄間に束ね熨斗模様

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 室内               中庭

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床の間 落掛の木目が美しい     竹材使用

城跡公園を抜けて、次はお寺を幾つかお参りし「八丁松原」へ向かう積りで、方角の検討を付け進むうち、お散歩途中の奥様に出会ったので、
「この道は城跡公園の向こう側の八幡(はちまん)様の道に出られますか?」
と伺うと、
「ああ、私らは「やはたさん」と呼んでるけど、出られますよ」
それで安心して、途中の日陰でメールの返事を打っていたら、先程の奥様がわざわざ戻って来られて、
「迷われてませんか? 私もそちらへ帰りますからご一緒しますよ」
とご親切に仰ってくださり、道々お話しながら歩けて嬉しかったです。 そして八幡様の所に出たら、

「あらら、はちまんって書いてありますわ〜 
間違っとったわ〜 御免なさいね〜」

「いえいえ、どちらも有りだと思います。
 そんな気にしないでください〜
 わざわざ追いかけてご一緒してくださって
本当にありがとうございます。」

二人して握手してぺこぺこ頭下げて可笑しかったです。 こういう人との触れ合いが何よりの旅の思い出になります。 二度と会うことはないかもしれませんが、きっといつの世かにご縁があった方なのでしょうね。 どこか懐かしい気持ちがしましたから・・・

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住宅街に残る古そうな道標を読む・・・傾きを直さない所が好き

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 民俗資料館で気が付いて伺ったのですが、屋根の勾配がふっくらと丸みを帯びていて「むくり屋根」というのだそうです。 何か意味があるのかと尋ねたところ『特別なものではなく、こちらでは普通ですよ』というお返事。 そう言われて気を付けて見ると、町の昔ながらの家々は皆この屋根の形でした。 ちょっとカマクラ見たいですが暖地ですから雪対策ではないでしょうし、雨の水捌けは良さそうですね。 優しい温かな佇まいに感じます。

 幾つかの名のあるお寺を巡る積りでしたが、住宅街には日影が無く流石に初夏の日差しに負けました。 何と言っても今日のメインは能因法師塚と伊勢廟なので、先を急ぎます。 もう少しで八丁松原という交差点の角で素敵な建物をみつけました。 これは絶対名のある人の設計・・・やはりそうでした。

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大阪医科大学別館(資料館) ヴォ―リズ設計 
イスラム様式のアーチやアラベスク装飾などを用いた個性的な意匠と地域の歴史的建築。 平成15年7月1日に高槻市内初の国の有形文化財に登録されています。

塀の隙間から写真を撮っている余所者を怪訝そうに見て通り過ぎる人々の視線に負けず、暫し細やかな装飾など見惚れておりました。 

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八丁松原

 こういうものは大体現代風の民家が迫っていて写真で見る程昔の風情が残っていないものですが、まずまずの面影は偲ばれ、下の解説にあるような風景を想像しながら、そぞろ歩きました。 それにしても暑い・・・。

【八丁松原】高槻市教育委員会設置の看板より 
八丁松原は、高槻城下の京口から西国街道に至る八丁(約900m)の間に続いた松並木で、江戸時代初期の慶安2年(1649)、高槻城主永井直清によって整備されました。 正式には「山崎通(やまざきみち)」と呼ばれた西国街道は、京都と西国を結ぶ重要な交通路であり、八丁松原は京坂間の要衝高槻城とを結ぶ最短の道筋でした。 最盛期には数百本の松が連なり、「小天橋(しょうてんきょう)の如し」と称えられた八丁松原も、明治時代以降は東海道線や新京阪(現・阪急電鉄)の開通、道路の拡幅等によって、松並木の片側を残すだけとなりました。 そして今では、松原公園の僅かな老松が往時の面影を留めているに過ぎません。

(後編へつづく)
 
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2016年01月02日

古民家の宿

お正月、家族で水戸の郊外にある古民家の宿を訪れました。 宿泊するのは元は蔵だった建物。
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美しいナマコ模様が施された厚い壁には窓が無く扉は固く閉ざされ、光は南側から取り込まれるだけです。
高い軒には大きなスズメバチの巣の名残、その下には恐らく左官屋さんが鏝(コテ)で描いた紅白の鶴亀のこて絵。 築90年の土蔵には、腕のいい左官屋さんのお仕事が残されていました。
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(写真・右)こうした茶釜と風炉の組み合わせってどうしても帽子をかぶった人が大きな口を開けて笑っているようにに見えて、こっそりクスリとしてしまいます。

朝、山里の冷え込みで車のフロントグラスには不思議な霜の結晶模様が出来上がっていました。
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2013年08月21日

岡倉天心・六角堂

盆参りの折、北茨城市まで足を伸ばし、「東洋のバルビゾン」五浦(いづら)の岡倉天心記念館・天心邸・六角堂などが保存されている茨城大学・五浦美術文化研究所を訪ねて来ました。 横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山ら気鋭の画家たちを集め五浦で天心先生の目指された「東洋のバルビゾン」、今の五浦にはちょっと気恥ずかしい呼称に感じられますけれど、少し先の丘にある茨城県天心記念五浦美術館はいつも楽しみな企画展を繰り広げて下さり、その名に恥じない芸術の息吹があります。

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復元された「六角堂」

幾度か訪れた馴染みの場所でしたので、2011年3月11日の東日本大震災の大津波による六角堂流出のニュースには大きな衝撃を受けましたが、多くの方々の尽力により、翌2012年4月17日、以下の様に流失前より一層創建時に近い姿に復元されていました。(復元なので残念ながら登録有形文化財としての認定は抹消)

・昭和38年の改修工事で撤去されていた堂の中心にあった六角形の炉を復元
・天辺の宝珠を破片を基に復元、海底より発見された水晶(六角柱)を納める
・同改修で変更されていた南側出窓を記録を検証し創建時の姿に復元
・同改修で葺き替えられていた瓦を創建時の桟瓦(8寸巾)に復元
・窓ガラス製法を当時のものに再現(イギリスに特注)
・塗装を創建時のベンガラ彩色に復元


入り江の磯に波濤砕け、先は広い世界へと通じる太平洋を望み、天心先生は思索を巡らせ、時にこの六角形の炉(上の写真で半分覗いているのが見えます)で湯を沸かし茶を点て過ごされたのでしょうか…同じ場に立ち、海を眺め、感慨深いものがあります。

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こちら(上)は、荒廃・放置されていた元料亭「観浦楼(かんぽろう)」の古材を用いてと伝わる、天心設計により改築して実際に住まわれていた天心邸です。 (登録有形文化財)

 
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天心邸跡の長屋門(登録有形文化財)を出て道を隔てた階段を上った所にある天心のお墓です。 六角堂や記念館に比べると訪れる人も少なめでひっそりとしていましたが、木漏れ日の中で穏やかに眠られて…いや、今の現世(うつしよ)を常世(とこよ)からご覧であれば、とても心穏やかではないでしょう。 岡倉天心先生に学び直さねばなりません。

復興支援・岡倉天心生誕150年/没後100年記念の映画「天心」のロがあったらしく、ポスターが随所に掲げてありました。 天心役が個人的には余り好きでない役者さんなのが…う〜ん。 

そうそう、有名なエピソードですが、ボストンの街角で弟子の横山大観・菱田春草らを伴い、羽織袴で歩いている時、アメリカ人に、
"What sort of nese are you people?  
 Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"
と問われた時、
"We are Japanese gentlemen.
 But what kind of key are you?
 Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"
とユーモアも交え、すかさず切り返したとは、その余裕…流石、「カッケー!」です。


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巻末に横浜で英語塾に通い9才にして既にネィティブ並み、フェノロサの通訳も務めた天心先生が英語で書かれた原文“THE BOOK OF TEA" が付いています。
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2012年09月24日

聖メヴラーナ「七つの教え」

 秋雨というには激しすぎる大雨が夏を追いやり、一気に肌寒い風を招き入れました。私の夏休みも終わりです。あちこちガタのきた身体に気合いを入れて、キャンプ・盆帰り・トルコ・北海道と暑い暑い夏の最中を出歩いて参りました。ケロはその後、また沖縄にも行っています。若いってスゴイことですね!

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 この夏のこと、何から書くかは決めていました。いちばん心に残った言葉です。トルコの旅でコンヤという町へ向かうバスの中で、トルコ人ガイドのイブラハムさんから美しい日本語で発せられた言葉が胸の奥に響きました。

 バスの中では完全にメモは取れず、メヴラーナ博物館の前のトルコ語と英語の掲示を写してきたものを元にネットで検索して調べてみました。実に様々な和訳があり、トルコ語も分からず、どれがメヴラーナの心を一番伝えているのか判断に困りましたが、やはり最初に耳にして感動した言葉を思い出しつつ自分なりに推敲してみました。どれが正解ということではなく、一人一人の置かれた状況によって受け取り方が多少違っていてもそれはそれで良いのではないでしょうか。必要な時に必要な言葉が心に映る…教えというのはそうしたものだと私は思います。

     
       聖メヴラーナ「7つの教え」
       Hz. Mevlana Yedi ogudu

1. 恵みや人助けは、流れる水の如く(気前よく絶え間なく)
   Comertlikte yardim etmede akar su gibi ol,
    (In generosity and helping others be like the river.)

2. 情け深さと親切は、太陽の如く(平等に暖かく)
   Sefkat ve merhamette gunes gibi ol,
 (In compassion and grace be like the sun.)

3. 人のあやまちは、夜の闇の如く(覆い隠せ)
   Baskalarinin kusurunu ortmede gece gibi ol,
   (In concealing others' faults be like the night.)

4. 怒りや苛立ちは、死の如く(葬り去れ)
   Hiddet ve asabiyette olu gibi ol,
   (In anger and fury be like the dead.)

5. 慎み深さと謙虚さは、大地の如く(静かに動じず)
   Tevazu ve alcakgonullulukte toprak gibi ol,
   (In modesty and humility be like the earth.)
                      
6. 寛大さは海の如く(大らかに広く深く)
   Hosgorulukte deniz gibi ol,
  (In tolerance be like the sea.)

7. ありのままの己を見られよ、
   或いは、見られる通りの己であれ。(裏表なく)

   Ya oldugun gibi gorun, Ya gorundugun gibi ol !
   (Either exist as you are or be as you look.)

   *日本語の(  )内は、今の山桜の個人的解釈です。


来れ 来れ 何人であれ 再び来れ
不信者であろうと、拝火教徒であろうと、他信徒であろうと、来れ
わが学びの場は絶望にあらず
たとえなんじが百度その誓いをやぶろうとも
来れ 再び来れ


*聖メヴラーナ(我が師の意)
 ムハメッド・ジャラールッディーン・ルーミー(1207-1273)
 独特の旋回舞踊セマーで知られるメヴラーナ教団の創始者・詩人・神学者。


 トルコでは「トルコ人と日本人は親戚」「お互い兄弟だから」などと嬉しい言葉を何度となく掛けられました。 トルコでは、日本とトルコの心の交流の歴史を学校で習うのだそうです。観光地では英語よりも日本語が通じるほどで驚きました。(トルコ語と日本語は主語述語などの順序が同じなので、学びやすいのだそうです。それにしても街中でも流暢な日本語を話す人が多いこと!) 

 勿論、商売上のお世辞やツールの部分もあるでしょうけれど、「七つの教え」を心を持とうとする人間性に、日本人と通じるものがあるように思えました。 近隣諸国とは同じ文化圏のようでいて考え方の違いを痛切に感じるこの頃ですが、遠く離れたこの国で「文化は違うけれど心が同じ」と固く握手され、嬉しくて胸が熱くなりました。 

写真右から メヴラーナ博物館  七つの教えの掲示  休息中の優しい瞳の紳士



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2012年04月30日

大洗磯前神社(再訪)

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   大洗磯前神社本殿と八重桜(関山?)

 何かと嬉しいご縁がある大洗磯前(いそざき)神社へこの春も参りました。

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  長い釣り糸(竿?)を垂らすウラシマソウ

 東斜面のウラシマソウも健在でした。 写真を撮っていたらお掃除中の方が『ここに何十年も住んでいて初めて見た』と仰っていました。 地味な花(苞)ですし、なかなか目に留まらないかもしれませんね。 テンナンショウの仲間好きも少なくはないのですが(笑)

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 今まで素通りしていた南からの参道で「茶釜稲荷神社」の鳥居が目に留まり、「茶釜」の名に釣られてお参りしていると、ちょうど参道を掃き清められてきた神職の方とお話しすることができました。 「茶釜」の名の由来は、昔近くにあって転居された旅館の経営者さんの屋号が「茶釜」といい、そのお宅に祭られていたお稲荷さんなので「茶釜稲荷」、 転居の際こちらの境内に祭祀を委ねられたとのこと。 なぜ屋号が「茶釜」だったのかは分からないそうですが、きっと茶の湯に関係の深いお家だったのでは…と想像を膨らませています。 春から茶釜に誘われたのは、益々茶の湯の道に精進せよとのことでしょうか??

 (参道の写真はお参りした帰りに最初の鳥居に向かって戻る途中で、神職さんのお写真はかなり離れてから振り返りそっとズームで失礼しました。)

ラベル:大洗 神社 茨城
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2011年07月04日

日光K美味しいお店

 いくら駆け足の参拝でも日光山巡礼は半日では終わらず、お昼を随分回ってしまいました。 身体は冷え冷えですし、お腹はぺこぺこ、出来れば美味しいものを〜と思う気持ちと、もう何処でもいいから早く休みたい〜と思う気持ちのせめぎ合い。 そんな時、以前から気になっていたものの、いつも満席で順番待ちが出来ていたこともあるお店に、なんとお客様がいないのを発見!

 雨でなければ日光山二社一寺の参拝もなかったでしょうし、このお店にも入れなかったかもしれません。 ご縁に導かれて計画とは違っていくのもなかなか楽しいものですね。

【fudan懐石 和み茶屋】
 
<ゆば懐石*四月の献立>
 メモも取っておらず献立表もどこへやら…記憶の糸を辿って… 

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 引き上げ湯波・胡麻豆腐? 湯波好きには溜まらない引き上げ湯波の下にはもちもちの何だったかなぁ…豆乳の葛寄せだったかも?? ケロ、覚えてる?

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蛍烏賊、独活、うるい(大ギボウシ)、人参、慈姑?、茗荷茸?、オクラ、スナップえんどう、出汁巻き卵、菜の花、?、鮭の手毬寿司、 素材の味を引き出す最適の手が惜しげなくかかっていました。

 ここでお料理の美味しさに辛抱溜まらず、メニューには無い(あくまでも茶屋ですし…)注文をば…。 なにせ体が冷え切っていてこのままでは絶対に風邪引きそうだったので…。 

「あの…もし出来ましたら、熱燗、お願いできないでしょうか…」

 他にお客様も無く、ずぶぬれの私たちを気遣われ、わがままを聞いてくださって…そっとお銚子とお猪口を出してくださいました。 その上毛布まで! ありがとうございました。 胃にも心にも温かさが沁みましてございます。

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蕗の信太巻き、筍、こごみ(草そてつ)、蚕豆、蓬?生麩、山芋?の梅酢漬(花びら型抜き) このお皿を見て、開口一番「蕗に油揚げって間違いないよね〜♪」ほんに美味しゅうございました。

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揚げ巻き湯波の煮含め これは初日に「魚要」さんでいただいた「湯波蕎麦」にものっていた揚げ巻き湯葉にたっぷりのお出汁がふくふくと浸み込んでいて、口に含めばじゅわっと広がる滋味…。

 「あれ、このお皿、家のと同じじゃない?」と私。
 「そうそう! こっちの湯呑みの色合いと切り込みも似たのがあるよね」とケロ。

 なんと、こちらで使われている器の幾つかは、拙ブログでも度々ご紹介したきた「益子のみやざき窯さん」の「刷毛目五寸皿」と「しのぎカップ」ではないかと思われます。 益子と日光は、結構近いので不思議はないのですが、こうして思わぬ所でめぐり合えて出来て感激でした。 宮嵜さん、ご覧になっていらっしゃるでしょうか? 間違いありませんか?

 益子や笠間などの窯も震災で大きな被害を受けています。 もし、何かお気に召した器がみつかりましたら、ご縁を結んでくださると私も嬉しいです。
益子焼通販・陶器・和食器/みやざき窯」← 1クリックでリンク先に飛べます。

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白魚と芹?のかき揚げ、酢の物?(何だったかなぁ…ごめんなさい)、桜飯、沢煮椀 ご飯の上に掛かっているのは、ユカリではなく桜の塩漬けを干して細かくしたもの。 桜の香りがふわ〜っと…。 胡椒の効いた沢煮椀がいいアクセントでしめてくれました。

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白玉胡麻餡蜜 だたの餡ではなく胡麻餡というのがにくいですね〜 餡・寒天・白玉にはうるさいケロも納得のお味でした。

 お土産は、「油源」さんで山独活と蕗の薹を沢山(お安くてビックリ!)、地酒は「吉田屋酒店」さんで楽しいお話を伺いながら、アレコレ利き酒させていただき選びました。(またしても昼から呑んでますが、決してこちらから要望した訳では…^^;) あのお宮さんの宮司さんは大層お酒がお好きらしいですよ〜(お酒好きの宮司さんって、別に珍しくないですね^^)

 そして帰りの車中でケロは(まだ食べるんかいな!)、「牛めし弁当」を…温泉卵の殻をむき、黄身をとろ〜りとからめて、いっただきま〜す!
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 ケロ曰く、濃い目のご家庭の味って感じでご飯が進むそうな。 よく見れば、お土産に山菜を買った、お惣菜の作り売りもしている「油源」さん製造でした。 ご縁は続くものですね〜 

 車窓から見える日光の杉並木が夕闇に消えていくにつれ、私たちもトロトロと夢の中へ…。 大震災で延期になった母娘二人旅、平常時に受けることの無い強い印象を残してくれました。(おしまい)

          *         *         *

 うううっ、旅日記を何とか最後まで書き終えたのは初めてです! やはり時間は自分で生み出すものですね。 そして、なんとこのご縁の連鎖はまだまだ続くのでした。 それはまた後の心で…。
 
posted by 山桜 at 11:16| Comment(6) | TrackBack(0) | 旅・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

日光J大猷院(家光)廟

【輪王寺・大猷院(たいゆういん)廟】
 大猷院は三大将軍家光公の法名(亡くなってから贈られる名前)。 家光公の祖父・家康公に対するこの上もない高い尊敬の念から、決して家康公を祀る東照宮を真似たり凌いだりしてはならぬとのご意向により、規模は小さく色合いも金・黒・赤を基調とした抑え目の色調となっています。 

 金・白を基調に五色に彩られた絢爛豪華な東照宮よりも、却ってこちらの重厚・厳かな雰囲気が好もしく思えました。 かといって決して質素でも地味な訳でもなく、品格の高い特上の装飾がしっかりと施されています。 

 あまりにも激しくなってきた雨と寒さの中、駆け足の参拝となってしまい、傘を差しながらの撮影ではピントも定まらず残念でした。 次回はこちらを重点的にゆっくりとお参りしたいと思います。

 沢山の門を潜り、階段と折れ曲がった道を昇り行く過程で振り返り見下ろせば、眼下に広がる山に囲まれた庭園も美しく、まさに「さながら天界に昇りゆくような」気持ちを味わえます。

「二天門」 正面には「持国天」「広目天」、背面には「風神」「雷神」が。 ああ、この風神様の風袋の柔らか味がたまりません! 
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雷様〜雨止ませてくださいませんか…
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「夜叉門」
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 牡丹の彫刻で飾られていることから別名「牡丹門」とも。
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 正面・背面では、四夜叉が警護にあたっています。 
 ごめんなさい! お名前が、分かりません。
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「唐門」の白壁の装飾 彩色の無い真っ白な彫刻の清楚さに惹かれました。
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「金閣殿」(拝殿・相の間・本殿) 
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「金閣殿」を囲む塀の出口を潜るとその先に・・・
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「皇嘉門」この先は、奥の院・家光公墓所へと続きますが、通常非公開。
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 大猷院廟、今まで素通りばかりしていましたが、もう何十年も前に参拝した東照宮の奥の院・家康公の墓所と並んで、日光山でもう一度じっくり訪れたい場所になりました。 
ラベル:日光 家光 栃木県
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2011年06月30日

日光I二荒山神社

 今日は半年分の穢れを祓う「夏越の大祓」ですね。 皆様、夏の大掃除は無事にお済みでしょうか? 未だの方はせめて気持ちだけでも「茅の輪くぐり」をどうぞ…
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       夏越の大祓「茅の輪くぐり」
          (日光二荒山フタラサン神社HP ライブカメラより)

日光三山の神、

男体山(二荒山・2486m)大己貴命
女峯山(2464メートル)田心姫命
太郎山(2368メートル)味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ命)
               別名 迦毛大御神(カモノオオミカミ)
               鋤=農耕神であり、雷の神 
               今日は丁度雷様が大暴れしてらっしゃいます…       

を総称して「二荒山大神」と称し、主祭神としています。

この三神は親子として親しまれおり、境内には「縁結び」で有名な「夫婦杉」の他に「親子杉」も祀られています。 折角の親子旅なので「親子杉」をご紹介しますね。
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最初の頃にご紹介した桃かと見まがうような大木の「八汐つつじ」が見事に咲いていたのが、この神社です。
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そうそう、先にご紹介した共通セット券には「二荒山神社」の券も付いていますが、参拝は自由(無料)ですので回収されることもなく、手許にその一枚だけ残ります。 外人さんなどは不思議に思わないかしら…。 それとは別に神社の左手奥にある「二荒山神社 神苑」は有料で、修学旅行生が喜びそうな?ちょっと遊びを添えて、弘法大師お手植えの高野槙、化け灯篭、神輿舎、幾つもの末社、などを巡回できるようになっています。 

冷たい雨が降り続いていましたし、ケロも最早それらで遊んで喜ぶ歳でもなく、この日、なんだか心惹かれたのは、霊泉の水面に浮かんでは消える沢山の輪…それがそのままふわっと傍らの石にも波立つように伝わって、私の心にもその輪が広がってゆくようでした。
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2011年06月26日

日光H東照宮

 お天気が良ければ、去年の春に歩いた東照宮の裏山をぐるりと回わるハイキングコースを通り、役行者のお堂や白糸の滝や二荒神社の別院・滝尾神社をケロにも参拝させたかったのですが、流石に日光を訪れながら三度続けて「東照宮・輪王寺」をはずすというのは天が許さなかったようで…山歩きには激しすぎる雨ですし、ケロの靴は既にグズグズですしね…(苦笑)

 それに、ずっと
 「拝観料1300円って高〜い!」
と思っていたのですが、二社一寺共通券ですと、輪王寺(宝物殿・逍遥園含む)・東照宮(眠り猫・奥院除く)・二荒神社の神苑(神社は元々参拝自由)・大猷院などを含めてのお値段でした。 今までは、各々で1300円くらいが必要なのかと思っていたので…(勝手な思い込みですみません!)。 しかし、このようなセット券ではなくて個別でも参拝出来るのでしょうか…。 その辺り、今回も確認を忘れてしまいました。

<追記>
 先程ネット検索で調べた限りでは、何だか実際に入手した券と
 異なり、二社一寺共通券が輪王寺宝物殿/逍遥園や二荒神社
 神苑は別料金で ¥1000 となっていました。 

 もう手許に券は残ってない(拝観時に切り取られて回収)ので
 確かめようも無いのですが、実際に宝物殿などを券で回って
 いるので、私たちが入手出来たのは、それらが含まれての共通
 券だったのは間違いないと思います。

 そして、東照宮だけで眠り猫や奥院も含まれて¥1300
 という券も存在していて、以前に思っていた通り、単独で
 ¥1300も間違いではなかったのです。

 どちらにしても、それぞれで個別に納めるよりは共通券は
 確かにお得な設定には違いないので、回りたい所をよく確かめて
 から券を入手することをお薦めします。



 さて、日光・東照宮。 徳川三代将軍家光が祖父初代家康を祀る為に創建。
余りにも知られた名所旧跡なので、へそ曲がり視点で眺めて参りました。

「見ざる・聞かざる・言わざる」の「三猿」の「隣の猿」たち…
「少しは、僕たちのことも見てよ〜」「こっちから見てやろう」って?
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 巻き毛がむくむくの狛犬さん。 
甘えたような表情は、まるで寵愛を受けてそだったかのように穏やか。
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 日本的好みの「空間の美」とはかけ離れた「埋め尽くし」の装飾。 柱や壁までもびっしりと隅々まで彫刻や蒔絵や画彩が施されてされています。
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 華やかな彫刻群の中には、割りに普通な?人々の姿も。
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 「お母さ〜ん! 餌ちょうだ〜い!!」って雛鳥も居たんですね〜
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 ケロは靴も靴下も濡れていたので、どこにも上がらず(修学旅行で拝観したと)、建物の外回りや彫刻群や灯篭などをよくよく鑑賞できたそうで、私もそうすればよかったなぁ…。 久しぶりに聞きたかった「鳴龍」の共鳴も記憶の中のものと何だか違っていて、ガッカリ。 こういうものは、やはり適した気候ってあるのでしょうね。 湿っぽい時は一番ダメなのかもしれませんね。

 なんだか東照宮を巡りながら、悪霊から身を守る為に全身を経文で埋め尽くした(耳だけ忘れたけれど…)「耳なし芳一」や、キリスト纏わる全ての物語を未来をも含めて?表現し続けているバルセロナの「サグラダファミリア」を思い出していました。

 長い戦国時代を潜り抜け、やっとつかんだ徳川の世の平安な日々を、お爺様ならびに神仏に何とかして守護して戴こうという家光の切なるな願いが込められているのでしょうか。 お蔭で「三代目のジンクス」を打ち破った家光さん。 果たして、当時も「三代目は身上をつぶす」と、言われてたのかしら??

 日光山の神さま仏さま、関八州守護のみならず、また東日本のみならず、日本全土を、この未曾有の自然災害の危機から、どうかお守りくださいませ。
 
ラベル:日光 東照宮 神社
posted by 山桜 at 23:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月23日

日光G輪王寺・逍遥園

 多楽さんが、日光の並び(化け)地蔵様達に会いにいらしたと伺い、日光の旅日記が(毎度のことながら)途中だったことを思い出しました。 梅雨風邪もようやく一段落したところで、そろりそろりと続けます。

 あの梅雨冷えは何処へ? 急に真夏日がやって来て、草木も人もぐったりですね。 せめて春まだ浅き日光の爽やかな冷気をお届けしましょう。

 日光山輪王寺・宝物殿の「逍遥園」を一人で心行くまで巡りました。 男体山など付近の山々を借景として作られた池泉回遊式庭園です。 江戸時代、門主として京都から来た皇族出身の僧・輪王寺宮法親王を慰さめるために作られたのだそうです。

 この日は朝からかなりの雨降りで、同行のケロは水溜りに嵌ってしまい靴も靴下もビショビショ、寒さも相俟ってすっかりテンションが下がってしまい、宝物殿で休憩中です…。

 八汐つつじや水芭蕉に彩られた池面には、雨の雫が点々と波紋を広げていました。
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 お茶室にもなりそうなお休処。 (何も説明がないので何とも…)
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 人が歩かない処は、殆ど見事な苔に覆われています。
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 振り返ると先ほど小さな建物が池端に静かに佇んで見えました。
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 龍のように伸び上がる古木もすっかり苔に覆い尽くされて…
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池は細長く中ノ島を持ち、池岸は入り組んでいて、少し歩くだけで全く異なる表情を見せてくれます。 向こうの山を借景に、低い常緑樹の中から背の高い落葉樹が伸びて高原のような味わいも。
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日本中の多種の紅葉を集めた秋の美しさが有名で近年はライトアップもされています。 また、東日本のサツキの発祥地ということで、私の大好きな品種「晃山」「日光」もこちらが故郷だということを始めて知りました。 サツキともみじの頃は、大賑わいなのでしょうね〜 静かな季節に歩けて幸いでした。

 元々は小堀遠州作と伝わるお庭ですが、繰り返し改修が行われたようで当時の面影が偲ばれるものは少なそうです。 写真(下中)の石橋の長平石の形は若しかしたらそうでしょうか…? 写真左・自然石をくり抜いて造られたような塔 写真右・枝跡の残る樹の柱が用いられている門 小さなお休み処の中の襖絵(こういう装飾がある所は都風というか侘びたお茶室とは少し違う風情を感じます)何故か由来も説明も何も無いので、どういったものなのか皆目分からないのが残念です。)
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(1クリックで写真は拡大されます。)

「宝物殿」の展示は、東京国立博物館の「大徳川展」でお目に掛かっていたことと、宝物保存の為に仕方ないのでしょうけれど(それとも節電?)、とても薄暗くて何だか…。

「輪王寺」の「三仏殿」「護摩堂」は改修中で足場や幕に覆われており、狭い通路を流れ作業のような説明を浴びながら通り過ぎ、一番熱の入った弁がお守りや護符やストラップやらのお薦めで…改修には先立つものが必要なのでしょうけれど、もう少し静かにゆったりと参拝したかったです。

posted by 山桜 at 19:40| Comment(4) | TrackBack(0) | 旅・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

Spirited away−何故ここに?

 環水平アークを初めて見た後、思いもかけない異空間へと迷い込みました。 ただ、開門時間内であれば湖への近道を抜けられるというので、地図を片手にお寺(この山域全体は「狭山不動尊」と呼ばれている)の中へ入っていくと…

 いきなり迎えてくれたのが、「日光東照宮!?」というようなこの門です。

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【勅額門】元、東京芝・増上寺の徳川家台徳院一品大相国公(二代将軍秀忠公)の御廟に、寛永九年(1632年)三代将軍家光公が建立したもの。 勅額は後水尾天皇の筆。 国指定重要文化財。

 なるほど、家光公の建立であれば東照宮に似ているのも道理ですね。

 続いてまたもや、この豪華さときたら…!

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【御成門】やはり同じ芝・増上寺の秀忠公の御廟に、その子家光公が同年に建立したもの。 格子天井の中央に丸い鏡天井が設けられているのが珍しい特徴とのこと。
 
 金色の飛天像…の下には「葵の御紋」?

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 鏡天井の中には天女が… あ、ここにも「三葉葵」の御紋が見えます。

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 こちらは離れて見るとこんな風に囲われていて、中をくぐることは出来ません。

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 この右手奥には、秀忠公のご正室、今年の大河ドラマの主役「江姫(崇源院)」の御廟(芝・増上寺)から移設した【丁子門】などもあるのですが、東日本大震災により危険な箇所が生じたそうで、残念ながら「立入禁止」となっていました。 折も折、脚光を浴びるという滅多にない年に、そんなことになってしまうとは…案外お江さんは、あんまり騒がれたくないのかもしれないですね。

 打って変わってすっきり堂々、武骨さがいかにも武家らしい門です。

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【不動寺総門】 元、長州藩主・毛利家の江戸屋敷門。 総ケヤキ造。

 狭山不動さんの本堂は元は京都・東本願寺から移築した七間堂でしたが、平成13年に不審火で焼失。 今は味気ないコンクリの建物で、なにやら人の出入が多いのもあって、写真を撮るのを忘れてしまいました。

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【第一多宝塔】
 桃山時代(1555年)大阪府高槻市梶原にある畠山神社(もと梶原寺)に美濃国林丹波守が建立したもの。

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【第二多宝塔】
 室町時代中期、永宝七年(1435年)兵庫県東條町天神の椅鹿寺に播磨国守護赤松満男教康が建立したもの。

 なんという優美な曲線の集まりでしょう

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第二多宝塔の前の灯篭。 前側には「鷺」・裏側には「濡」の文字が。
どんな意味があるのでしょう。

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【弁天堂】

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【康信寺】 ユネスコ村にあった時は「孔子廟」とされていたらしいです。
 そして、なんと、その中に祀られているのは、台湾の文武廟にある孔子廟に祀られていた孔子・孟子・子思の本家像で、台湾に今ある方がレプリカなのだとか…。 どういう経緯か分かりませんが、恐らくこれも堤氏が黄金時代に入手されたものなのでしょう。 ご自分の名前の字を寺名に入れてらっしゃるのですね。

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【大黒天】もと奈良・極楽寺、柿本人麻呂の歌塚堂 もう、何故ここに?

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無造作に立ち並べられた夥しい数の灯篭の群れ、それぞれに誰の為に誰が寄進したか記されているのに、何でこんな所に・・・ 増上寺境内にホテルを建てる時、こちらに運んだきりなのでしょうか・・・

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【奈良十津川 桜井寺山門】
こちらもまたマニアが見たらビックリものですよね・・・何故、ここに!?

 ジブリ映画「千と千尋の神隠し」を見た時、「テーマパークの跡地」というキーワードから、『もしかして「ユネスコ村」?』と思い浮かべ、そういえば、あの丘陵の住宅地、向こうの世界へ行く前にくぐった門や石仏、遊園地の駅の待合い? 湖の底のように広がる風景もどこかで見たことがあるような気がしていました。
(つづく)
posted by 山桜 at 19:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

去年はナポリ(結婚記念日)

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サンタ・ルチア港の「卵城Castel dell'Ovo」 お城の下に埋められた卵が割れる時はナポリも…
そんな「卵城」を眺めて陽気に日光浴中のオジサマ方もまるでピッカピカの卵!?

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 ホテルに戻ると実家の両親から結婚記念日を祝うスプマンテが届いていて…乾杯!

 今年は主人と二人「塩の花」という意味のフレンチ・レストランで昼食のお祝いをしました。 こちらは日本風にアレンジされたチマチマと小奇麗なお料理ではなく、バターも生クリームもハーブもそして自慢のお塩も効いた、お肉・お魚・お野菜の命をそれぞれしっかり戴いたという満足感のある、芯のぶれない食べ応えのあるフレンチです。 ケロロンが居れば写真も撮りやすいけれど、二人だけだとなんだか気恥ずかしくて、お料理の写真さえ撮れないものですね…。

 大手術から9年、後の辛い治療から2年、あれこれ万全とはいかないものの元気に働ける体力も付き、味覚もまずまず戻ってきた中で平穏に迎えられた記念日に、心より感謝致します。 
posted by 山桜 at 19:25| Comment(9) | TrackBack(0) | 旅・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

一年前はヴェネチア

 台風が猛暑を吹き払い、久々に風涼しく肌寒いほどの夕べ、ほっと一息、ふとカレンダーを眺めれば、『あ〜一年前はヴェネチアにいたんだ…』 懐かしさに、一年ぶりにイタリアの旅アルバムを開いてみました。

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ヴェネチアのカナル・グランテ(大運河)にかかる「リアルト橋」より望む

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↑クリック(PCによっては更に+印の虫眼鏡をクリック)すると迫力の大画面(ちょっとどうなんだか…笑) 臨場感を味わいたい方は是非!

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           リアルト橋(別名・白い巨像)

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♪オ〜ソ〜レ〜ミ〜ヨ〜 観光客を乗せたゴンドラが続々と運河に繰り出します 

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狭い運河、頭すれすれの低い橋、わざわざスリルのある所を通ってのサービスは柳川と同じ?

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海辺の陽気な太陽が水面・白い壁・鮮やかな色彩に反射してきらめく船着場。  

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クルーザーに乗り換えて海に出れば、狭い空間から開放され景色も心も晴れ晴れ
あれあれ、ガイドさんが指差す先には…

パパラッチに追いかけられるジョージ・クルーニー! 
噂の彼女を同伴してヴェネチア国際映画祭に来ていたようです。

posted by 山桜 at 00:00| Comment(8) | TrackBack(0) | 旅・町歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする