「魂魄」という言葉があります。魂にも魄にも「鬼」がつきますが、この場合の鬼は「未だ頭に毛髪が少し残っている白骨体」の象形文字と言われます。
文字のつくりを見ると、
「魂」の「云」は「雲」の意で、形が無く天に昇っていくもの
「魄」の「白」は、真っ白になった頭骨、地に戻っていくもの
中国の道教では、魂と魄は二つの異なる存在であり、
「魂」は精神を支える気
「魄」は肉体を支える気
易学では、
「魂」は陽に属して天に帰し
「魄」は陰に属して地に帰す
魂魄(心身)が共に備わっている状態は、即ち生きている人間、離ればなれになるのは命が尽きた時。
「鬼滅の刃」に出てくる鬼は、様々な悲しい状況下で本来の「魂」を無くし虚ろになった「魄」に邪な「悪気」(物語上では、鬼の始祖・鬼舞辻無残の血液)が入り込み「悪鬼」となってしまった状態。
「魂」=「精神を支える気」を失った「虚ろ」な状態が、鬼=悪気の入る隙を与えてしまうのです。悪気は、病苦、諍い、災害、飢饉などを招き込み、優しかった人間をも悪鬼に変えてしまいます。太陽の力を秘めた「日輪刀」でとどめを刺され、悪気が抜けていく刹那、人の心を取り戻せた鬼たちはまだ幸いでした。
「悪鬼」=「悪気」とすれば、「良鬼」=「良気」も存在する筈です。「鬼滅の刃」にも、鬼であることを克服し悪鬼を嫌悪し、悪鬼を倒す研究をし続ける鬼が登場します。「泣いた赤鬼」や「鬼太のぼうし」には、優しい心を持った鬼の姿が描かれています。
さてさて、所で節分の鬼やらいには、鬼が嫌うと言われる「ヒイラギ」「鰯」「豆」がつきものです。何でも鬼は尖った物が嫌い、特に目を刺されるのが嫌い(鬼で無くても嫌ですよね)、魚臭いのも嫌いということで、トゲトゲのヒイラギに鰯の頭を刺して(目刺しの方が鬼には恐ろしいのではと私は思う)入口に「刺して」置きます。
鰯を使うのは「魚臭い」と共に、鬼の嫌いな「煙が出る」所も大きな理由のようです。そして「豆」は「魔滅」に繋がるから・・・おおっ、そうなると、「鬼滅の刃」の主人公の「炭」治郎と禰「豆」子は、名前からして鬼を退治する宿命を帯びていたのですね!
物語の中には、鬼を寄せ付けない為に「藤の花のお香」も焚かれています。未読の方の為に詳しくは伏せますが、やがて藤が大きな力を見せます。藤の花の強い香りは確かに邪なものを祓う力がありそうですし、マメ科で好日性、鬼の嫌いなお日様の光を存分に受け、沢山の大きな豆を生らせます。花・莢・豆が有毒。それでも未だ「藤」には他に何か理由がありそうでモヤモヤしています。
四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えた古の陰陽師・藤原千方なども関係しそうな・・・まぁ、急ぐことも無し、調べたり考えたりする時間を楽しみたいです。
今日は節分、明日は新しい年の始まりの「立春」。そんな節目に、元々このブログは「天地の理(あまつちのことわり)」に思いを巡らせ遊ぶ場だったことを思い出しました。どうやら鬼に思いを巡らせていたら、良い鬼が来てくれたようです。

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